半世紀前の塚越
石井 章夫著
馬洗い場のこと
塚越踏切から第2国道神明町に至るバス通りは、一直線であるが、昔は曲
りくねった道で大八車がやっとすれ違へるかというような道幅しかなかった。
この道の戸手方向左側に灌漑用の溝が流れていて、現塚越交番筋向かい当た
りに、溝幅が広がっていたところがあった。
ここを馬洗い場といった。
語源は、塚越耕地で田植え前に、田圃の中を馬が馬鍬を引っ張って田ならし
をしたものが、馬が一日の仕事を終わって、馬体に泥水が跳ね上がり汚れて
いるのをこの場所の流れに入れて、わらだわしで洗ったところから生まれた
もので田植え前の塚越耕地の夕方の風景であった。
火の見楼と消防
往時は塚越会館の右横のところに、はじめは木製、あとには鉄骨の火の見
楼が建っていた。高さ10mぐらいあったか、その下に消防ポンプ小屋が建
っていた。
そのころは御幸消防組といい、塚越は第6部といった。
古いわが家の写真を見ると、消防半天に腹掛け、腰帯、股引に足袋、豆絞り
の手ぬぐいを頭に巻いて鳶口をもった。
消防組員の若かかりし頃の父親とその同僚の威勢のよい姿が、神社の石段の
下に立つて写っている。
毎年1月始めに消防の点検が行われるが、点検日の前日には、ポンプ小屋
から手押しポンプを引き出して、真鍮部分や管槍(筒先)を磨いた。
点検当日は消防組員が、ポンプを押したり、曳いたりして、点検場の御幸
尋常高等小学校校庭に馳せ参じたものであった。
近在の火事で、火の見の半鐘がジャンジャンジャンと鳴り出すと、田畑で
仕事をしていた消防組員は、仕事を投げだして家へとって帰り、急ぎ支度を
し、ポンプを曳きだし押して、火事の現場に駆けつけた。
小倉の栗田医院の火災には、小倉耕地中を勇ましく第6部の消防組が、ポン
プ曳き押しして駆けつける後を子供だった私達は、これを追っかけて火事場
の野次馬見物をしたことがあった。
耕地と水利
塚越の地勢はおおむね平坦であって、本通りその頃は大通りと呼んだ。
その両側に住家が存在していた。
北は精米所の沼田家、南は下の清さん鳥養家、東の方は太田町沼田家、
西はほくちや長谷川家で、南北に長く ト型の部落であった。
南東部には戸手耕地に接する塚越耕地、南部にやとり、荒神前耕地、北部
に袋耕地が開けていた。
したがって塚越村の全域の半分以上は水田であった。
北東部は、田町通りの裏手が古川耕地、西側は小田堀りを境に小倉耕地
(現在の鶴見操車場)一体となっていた。
畑地はほとんど桃畑で占められ春先には桃の花が一斉に咲き、秋には、た
わわに桃がみのった。
その他は野菜畑で茄子や胡瓜、葱、菜類等、または根物野菜が栽培されて
いた。
塚越には二ケ領水の末流があり、鹿島田方面から一つは袋耕地を潤して
塚越大通り沿いの水流、一つは塚越と小倉境いを南流する小田堀りが江ケ
崎方面に流れ、江ケ 崎、矢向の北西部で別れて、塚越矢向境いを東流する
南河原堀りがあり、また、鹿島田方面から袋耕地へ分流した本流は下平間
と塚越、古川境いを東流する戸手堀り(大師河原堀り)とがある。
小田、南河原、戸手各堀りの両岸は堀上げ土で小堤防となっており、篠
竹や灌木が生い茂っていた。
川幅はおよそ3m程度であった。
袋耕地の中間を流れて、御獄神社の裏手から大通りを樋通して、東明寺
前をえて馬洗い場溝へ、大通り沿いの流れは矢向で南河原堀に落ちるが、
塚越踏切際で分流して、馬洗い場から戸手耕地に至る。
また袋耕地水流から分流は大通り水流であるが、現出羽屋酒店当たりのと
ころから左へ分流して、田町通り(東明寺裏)へ、けーど沼田家の前方を
戸手耕地に至る水流があるの外、小田堀りの塚越側に、袋耕地から荒神社
耕地にながれる。
新堀りという細流があった。
このようにめぐまれた水利のため耕地がひらけていたものであるが、耕
地がひらけていたものであるが、耕地整理により農道が出来ると共に、そ
れに沿った溝がつくられていた関係も多々あったものである。
主要道路を他村から塚越に至るには、下平間からは明治橋、矢向からは
矢向橋、小倉からは小倉橋を渡らねばならず、いずれも各堀に幅2m位、
厚い大型の石材で作られた橋が架かっていた。
大鯉の遡上
塚越本通り沿いの水流は幅が1m前後、深さ30cm−40cmで、
きれいな水か流れていた。
ある時、この流れを矢向の方から遡ってきた大鯉があった。
これを見つけた、中郷の鳥養仁助、沼田勝蔵、鳥養米吉さん等の若い衆が
川の中に飛び込んで、勝蔵さんがおさえつけ、仁助さんが銛を突いて仕留
めた。
引き上げて洗濯だらいにいれたところ、尾が曲がっていたので3尺(約
1m)もあったようだった。
魚肉は近所に分けられたが、しばらくの間はその話で持ちきりだった。
珍しい出来事であったし、たまたま小学校だった私は遊んでいた際、この
大鯉の仕留めたのを目撃していた。
部落の火災
塚越は昔から余り火事はなかったようだ。でも前述の鳥養屋敷の火災は
失火で原因はよく分からないが、当時としては大火災で、広い家屋敷を灰
燼にきしたことは、旧家だけに損害もおおきかった。
また為さん鳥養家とか、その後屋根屋の長谷川家の火災も失火で原因はよ
く分からないが、鳥養屋敷といい、長谷川家などと大きな百姓家が消防水
利不便、現在のように消防方法が発達していないときであるから、燃え落
ちる寸前に、消防の到着ということなので何とも致し方がなかった。
南武鉄道が開通して、蒸気機関車が走り始め、煙突から火の粉が飛び出
し、線路に近い横丁の鳥養家の屋根に着火、小火であったが大さわぎした
ことがあった。
電車の走る間に蒸気機関車が貨車をひっぱてはしった。
1号車と2号車があった。
踏切の近くに来ると、汽笛をピーピー鳴らした。
それが今言うとこのお茶ピイ娘に連想されて、私の父は(ほれ南武の娘が
きたぞ)と言っていた。
父は横丁の鳥養家の火事を気に病んでいた。
南武線路にちかく、茅葺き屋根に、火の粉を降らすからである。
そこで南武鉄道本社に掛け合って、やっとのことで屋根全部を波形トタン
板で覆うことで火災から免れた。
各家のたたずまい
塚越の各家はほとんど農家なので、家屋の造りは大なり小なり似ていて、
もちろん茅葺き屋根で、家の周囲は壁がむき出しが多く、下張り板をして
あるのはごくすくなかった。
住家の正面門口は5間ー7間以上、奥行きは4間ー5間以上にわたり、
向かって左右いずれかに大戸口がもうけられ、入ったところは土間で、そ
の奥が台所、勝手口で、勝手の内か外かが釜屋になっていた。
土間から取りつきの上がったところを広間(板の間)、その奥が奥の間
(デー)といった。
広間の隣りが勝手の間、奥の間には床と仏壇があり、その裏の間をは部屋
(納戸)と呼ばれ、表側は庇の下に濡れ縁と戸ぢまりの出来る内縁側、
西や東側に便所に通ずる縁側があり、部屋に出入りできた。
広間には天井のないとあるのとがあり、太い家棟が見上げられた。
奥の間はおおむね天井が設けられた。勝手の間も板の間であった。
台所や勝手の間は煮炊きの煙と煤で真っ黒、大黒柱は2本あり、7ー8
寸角の欅材で、手の触れるところは赤黒く光っていた。
外の柱は4寸角が用いられ、敷居幅も広くて障子の桟骨も太く丈夫だった
広間、奥の間の境は板戸で仕切られていた。
広間、奥の間はおおむね8畳または10畳、勝手の間は6畳、部屋は6−
8畳というように、4室位からなり、勝手の間や広間の上の端には、腰掛
縁がとりつけられている。
これは野良仕事で裸足のまま食事をするための場所となっていた。
また家の左右に差し掛けの下屋をとりつけるときもあり、さらに本家の
と別棟の下家という4坪くらいの建物が設けられ、農作業の大きい用具や
荷車が入れていた.
だいたい30坪以上の各家屋は、ほとんど南面しており、左右、裏側は
竹藪、さんご樹、槇等の樹木を回し、中にははんの樹や欅、杉松等が植え
られて北風を遮っていた。
家屋の南面は平地の庭で秋の収穫時には籾をむしろに干す、また苗床に
利用され、苗床が設けられたときは、風よけに、麦藁その他で囲った。
道路沿いの様子
南北に通ずる塚越の大通りは北は下平間の明治橋の手前から南は矢向橋
に至る道幅は、現在の本通りの2/3でひろかった。
砂利敷き道である。
各家で道路に面していたのは豆腐屋、畳屋、床屋、産婆、大門、塚ノ越、
精米所くらいで、本通り沿い各家は、道路より若干はなれていた。
すべて垣根で囲われ、通りに定口(その家へ通ずる出入り口)をもってい
た。
その垣根に使われていたのは、今から考えると槇の樹が多かった。
現在町中にはほとんど見たらない。
槇は秋口になると枝先に紫色の小指の先大の実がなってたべられ甘い味が
した。
ついで多いのが、さんご樹であった。
槇も、さんご樹も枝葉が密生するので、風よけと見通し不良の利があった。
各家の垣根は刈り込みするとか、くね立てするとか、よく手入れがあって
見栄映えがよかった。
大通りと交差する道路は、戸手から小倉に通ずるもので、現在とかわらな
いが、多少十字がずれていた。
次に現在の銀座通りは、軽部分家を経て、安さん石井家の裏に通じていた
たが南武線が敷かれ線路で分断され、踏切がないので危険な状態があった。
後年通行不能となった。
同じく現郵便局前通り、御獄神社横から別れた田町通り(現東明寺裏通り)
等が主要道路であった。
そのたの道路は耕地整理が進むにつれて、農道が幅を拡張され直線化さ
れた。
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