つれづれに     2003年8月

 大人になるとは、一体どういうことだろうか。社会的存在としての大人であれば、成人つまり20歳を越えたことであろう。20歳を越えることによって、契約の主体になれたり、選挙権ができたり、とにかく自分一人で行動できるようになる。しかし、20歳前であっても、肉体的には充分に成熟している。

 小学校高学年から中学生になれば、精通や生理を体験しているはずで、男女ともに繁殖力をもったと言える。個体の維持と種の保存が、生き物の存続に必要だとすれば、繁殖力があれば大人と言っていい。人間以外の生き物の世界では、繁殖力が備わると、おおむね一人前として扱われる。かつては人間世界もそうだった。

 武士が生きていた頃、12〜15歳ですでに合戦に参加している。10代の前半であろうとも、一人前の人間として、扱われていた。天皇にしてもそうだった。摂政という後見人を付けたとはいえ、12〜15歳であれば、一人前の自覚が求められた。「15で姉やは嫁にいき」だから、女性は10代前半でも結婚した。

 近代になって学校ができると、繁殖力と成人化のあいだが広がってきたとは何度も書いた。男女間の差別が拡大したのは、近代になってからだから、10代の人間を子供と見なす風潮も、近代に特有のものだろう。近代的な色眼鏡が、10代の人間を子供と見なしてしまうに違いない。

 性別と性差を区別するように、生き物としての人間を、社会的な存在としての人間から区別する必要がある。大人とか子供といった言葉は、あまりにも社会的な手垢が付きすぎている。大人とか子供といった言葉を使うと、自動的に社会性が混入してしまう。

 生き物としての大人と子供の違いは、繁殖力の有無だろう。とすれば、繁殖力を身につけた個体と、身につけない個体に、別の名前を付けるべきだろう。繁殖力のある個体とは、「成体」で良いだろう。いまだ繁殖力のない個体とは、「子体」か。まだしっくりと来ない。

 新しい思考をするためには、新しい言葉や概念が必要である。その言葉が、くっきりと現象を説明すれば、論理は半分は完成している。(2003.08.26) 

 大人たちは自分が若かったことを忘れ、あたかも現在の子供が劣っているかのように言う。いわく、体力が低下している。切れやすい。凶悪犯罪に走りやすい。モノを知らない。しかし、子供が大人より劣っていたら、人間は進化してこなかったはずである。

 30年前の10歳児と、現在の10歳児では、考えるまでもなく、現在の10歳児のほうが優秀である。もちろん、50年前の20歳児と、現在の20歳児では、現在のほうがはるかに優秀である。戦争や飢饉といった原因で、短期的な退歩があるかも知れないが、通史的に見れば人間は進化している。

 猿から人間への過程が、人類の歴史だとすれば、過去より現在のほうが優秀だと考えざるを得ない。今の若い者という前に、自分が若かった時代を思い起こすべきである。子供に無限の可能性を見るから、次世代を想像できるのである。(2003.08.21)

 田や畑で働くと、身体が変形する。手の皮はごわごわになり、顔は太陽に焼けて皺だらけになる。赤ちゃんのようなすべすべの肌から、だんだん遠くなる。それは男も女も同じである。自然は人間を鍛える。自然は決して人間に優しくない。ところで、かつては子供も立派な働き手だった。

 学校ができるまでは、田や畑で子供も働いた。しかし、学校へ行っている間は働けない。工業社会が始まったので、百姓に学問はいらないと、抵抗していた大人たちも、徐々に子供を学校へ預けざるを得なくなった。おそらくここで、子供がかわいい存在になったのだろう。

 かわいさは天が授けた幼児の生きる術だった。幼児は大人に世話ばかりかけるが、かわいいから大人たちは、面倒を見た。おそらく自分の家の幼児だからかわいいと言うより、幼児がかわいかったのだろう。いまでも、小さな子供を見ると、つい声をかけたくなる。幼児そのの者がかわいいに違いない。

 将来を担保に、子供は学校で勉強=働かないことが許される。働かない者を許すとは、他の誰かが負担を背負うことだ。幼児は育てる者の負担だが、学校に行く子供は、社会の負担である。育てる者への見返りは、かわいさで充分だった。しかし、子供が社会の負担となったとき、子供の存在意義が必要になった。

 働かない子供たちの存在意義は、幼児のそれを借りてきたのだ。つまり、汚れなき子供=かわいいという観念が出来上がったに違いない。実際の子供はちっともかわいくなくても、子供がかわいくないと子供の存在意義がなくなりかねなかったから、子供はかわいいことになった。

 井上章一氏の「美人論」によると、明治の中頃、不美人を卒業面といったという。金持ちの妻=専業主婦として、美人は修学の途中で引き抜かれて嫁いでいった。だから、美人は卒業まで至らなかった。卒業まで残った女生徒たちには美人がいなかった。そこで不美人のことを卒業面といったという。今でも、美人と成績の優秀さとは、反比例すると思っている節がある。

 美人とかかわいいといった概念は、働くこととは関係がない。それでは江戸時代に好まれた女性像はというと、「臀部肥大にしておたふく然たる良婦」だった。ここにはかわいさが入る余地がない。明治以降、<女子供>とひとくくりにして、半人前にみなす歴史が始まった。(2003.08.18) 

 子供はかわいい。女もかわいい。最近では、男もかわいい。かわいいとは、稼がない人間への賛辞ではないか。小さな子供は稼ぎようがない。しかし、どんな生き物にも存在価値はある。小さな子供はかわいいがゆえに、存在を許された。かわいいとは、寄生が許された別称だろう。

 田や畑で働く女は、どう見てもかわいいとは言えない。働くことは、かわいいこととは対極にあるのではないだろうか。寄生するためには、子供のようなかわいさがないと許されない。近代で専業主婦という立場を手に入れた女性は、稼がなくても良くなった。しかし、稼がないためには、何か存在理由が必要だった。だから、女性は自分をかわいく装ったのだろう。

 働いて稼ぐ人間は逞しい。それは子供でも例外ではない。稼ぐ子供は、むしろふてぶてしい。それは当然だ。働くことが人間を鍛えるから、逞しくなり、ふてぶてしくもなるというものだ。アジアの路上で稼ぐ子供たちは、逞しくも又ふてぶてしい。稼ぐ子供は、大人を騙すのなど朝飯前である。

 農業が主流なら、稼ぎは大地を相手に働く。だから、逞しくはなるが、ふてぶてしさはそれほどでもない。しかし、工業社会にはいると、労働対象は自然相手ではなくなる。ここで、働くことは逞しさと、同時にふてぶてしさを意味するようになった。

 現代の働く女性たちは、逞しくもふてぶてしいか? 清少納言が「枕草子」で、いとちさきものはと書いてから、我々は子供のかわいさに騙され続けてきた。子供自体が、かわいいわけではない。稼がない生き物が、生きるために身につけた術が、かわいさなのだ。(2003.08.15)

 男女の社会的な違いに着目した、ジェンダーなる言葉がある。それに対してセックスというと、生物としてのオス・メスの違いだろう。日本語ではジェンダーは性差と訳され、セックスは性別と訳される。フェミニズムの功績の一つは、人間を生き物としてと、社会的な存在としてに、分けたことだ。

 性差と性別の間にくさびを打ち込んだから、色っぽい格好をしても社会的には過激な発言ができるようになったし、マッチョ趣味が男性の社会性とは見られなくなった。つまり、生物的にオスでありながら、女性の格好もできるようになったし、メスでありながら男性の格好もできるようになった。

 我が国でフェミニズムというと、女(=女性)が女(=女性)にこだわるって言う感じだが、生物的な属性に拘ることは前近代にいることだ。それは少しもフェミニズムではない。「家族、積みすぎた方舟」が母子に拘っているのは、前近代指向である。解説を書いている上野氏は、女に拘ることによってフェミニズム音痴を露呈した。

 性差と性別を峻別したフェミニズムの功績は、子供を考える上でも役に立つ気がする。男女を性差と性別に分けたように、大人と子供を生物的事実と社会的存在に分ける必要がある。しかし、大人という言葉も子供という言葉も、生物的事実と社会的存在を混在させている。

 19歳と21歳では、生物的な違いはなく、社会的な違いだけである。繁殖力のある生き物を成体と言うのだろうが、繁殖力のない生き物を何というのだろうか。繁殖力のある生き物とない生き物に、異なった名前を付ける必要がある。新しい言葉が必要なのだ。

 大人・子供の両者から、生物的事実と社会的存在を分ける必要がある。性差と性別にちなんで、年差と年別とでも言ったらいいのだろうか。大人と子供から生物的事実を剥がさないと、我が国のフェミニズムのように、いつまでも前近代のままだ。性差に対応するのが男性と女性で、性別に対応するのが男と女か。かなり近い感じがする。

 生き物としての人間は変えようがないが、社会的な存在としての人間は変えようがある。田や畑で働いて有能な稼ぎ手だった女は、稼がない専業主婦へと適応的に変わった。環境が変われば、人間は適応すべく変わる。子供も「かわいさ」を演じるように、適応的に変身したのだ。子供の変身に騙されているか。(2003.08.12)

 子供の問題といって、子供にばかり視線が行っている気がする。自分の思考パターンが、子供へ子供へと向いてしまっているようだ。女性台頭の原因は女性自身にあったのではなく、男性社会にあった。男性社会の腕力的価値の低下が、女性の非力さを弱点とは見なくなった。だから、女性が男性と対等になった。

 どんな時代になっても、男性とか女性といった生身の存在は変わり様がない。社会から見て男性とはこうだとか、女性はこうだという、男性性とか女性性といった観念が変わるに過ぎない。最近の子供はといって、あたかも子供が変わったかのように言うが、それは間違いなのだろう。生身の男性や女性が変わらないように、子供も変わり様がない。

 かくあるべきといった女性観が変わっても、生身の女性が変わるはずもない。子供も同様だろう。社会が子供を見る目が変わった。子供という存在を、社会が1人前と認めてこなかった事情が、消滅しつつある。女性の台頭には腕力の無化だとすれば、子供の台頭には社会の何が無化されているのだろう。

 子供と大人の違いは何か。年齢だろう。大人と子供の間には、「生きた長さ」しか違いはない。大人より賢い子供はたくさんいるし、金持ちの子供だっている。しかし、大人より年寄りの子供はいない。子供が大人と台頭になる社会とは、加齢が無化した社会か。

 大人と子供という区別はあまり意味がないか。たぶん成体と未成体という区別が、意味があるのだ。繁殖力を持った個体と、まだ繁殖力がない個体、その違いが大人と子供の違いにすり替えられてきた。大人対子供ではなく、繁殖力対未繁殖力といった区別をたてなければならない。

 大人になっても繁殖力がない人もいるが、それは男性以上に腕力のある女性と考えれば良いに違いない。加齢と繁殖力の違い、このあたりに鍵があるのだろ。(2003.08.11)

 子供という言葉には、2つの意味がある。一つは親との関係で使われる。ここでは、子供は何歳になっても子供である。60歳になろうとも、親との関係では子供であることには違いない。もう一つは、成人していない人間という意味で使われる。ここでは21歳は子供ではなく、大人と言うことになる。

 成人たちは大人世界を、直接自分自身に引き寄せて、考えていたのだろうか。だから、自分たち以外の者という意味で、子供という言葉を使ったのだろうか。女性の地位が低下してくるのは、近代に入ってから激しいのだが、子供の位置づけも近代と関係あるように思う。

 10歳そこそこで働きに出たかつての若者たちは、実にマセテいた。10代の初めで煙草をくわえ、自分の小遣いをもった。もちろん先輩に連れられて女郎買いにも行っている。このあたりの事情は、池波正太郎氏も書いている。つまり、かつては年齢よりも働いているか、稼ぎがあるかが大人と子供の違いだったようだ。

 問題の所在は感じているが、なかなか核心に到達できない。(2003.08.08)

 黒人にしても女性にしても、いままで差別の撲滅を叫んだのは、すべて成人でしかも当事者である。彼等彼女たちは、成人であるがゆえに、自己主張し得た。成人たちは現在に生きているから、差別者と被差別者が裏返った形であれ、現在の価値観を共有できる。しかし、 現代社会では、「子供」が生きるのは将来だとされる。

 今の「子供」は現在に生きていない、とされる。しかし、中世など肉体労働が主流だった時代には、子供も成人と同時代に生きていた。子供は10歳を越えれば、充分に労働者たり得た。途上国へ行けば、今でも子供が貴重な労働力であることに変わりがない。肉体労働が中心の社会では、とにかく体力があれば一人前扱いである。

 成人と子供を隔てる境を、20歳といったかたちで人為的に設定するのは、最近の現象である。現代社会の建前上、未成年者が酒を飲むのは禁じられているが、20歳前でも酒を飲むのを大目に見る風潮がある。肉体的成熟と、年齢制限は直接の関係はない。

 20歳が大人と子供の境だとは、観念的な虚構に過ぎない。肉体労働が不可欠だった社会では、肉体労働に耐えうる者が一人前である。大人とか子供といった分け方は意味がなく、大人も子供も同じ労働力だった。だから子供も性的な対象だった。しかし、子供を成人と同視しない現代では、建前上、子供は性的な対象ではない。

 事実として見ると、子供という肉体としての存在は、時代が変わっても同じである。にもかかわらず、「子供」なる概念を作って、子供を半人前と見直した。すでに精通を体験し、生理が始まった人間を、「子供」という範疇に押し込めた。子供を半人前と見るようになったのは、女性が田や畑での労働者から、専業主婦という社会の寄生虫になった過程の裏返しである。(2003.08.04)

 「エデンより彼方に」の映画評をお読み下さっただろうか。当サイトは、家族論や社会を見る目において、時代の最先端を切り開いている、と自負しているが、この映画評で大きな曲がり角を曲がったように感じている。黒人や女性そしてゲイなどの差別が問題なのではない。これらはすでに理論的な解決を見ている。後は政策の問題だけである。

 「子供」そして世代の問題こそ、理論的に解明されなければならない。子供の問題こそ、すべての社会がそれぞれに内包した問題として、解き明かさなければならない。スーパーフラットな情報社会では、子供も大人と同じ人格として扱われる。だから安直な人権派よりも、小田晋「少年と犯罪」などに一面の真理はある。

 問題は、なぜ、いかなる背景で子供が大人と同じになったのか。問われるべきは、その論理的な解明である。真の原因を問わないと、我が国のフェミニズムのように願望先走りの結果、迷路に落ちて失速せざるを得ない。「エデンより彼方に」の監督は意識していないかも知れない。しかし、子供が自立せざるを得ない構造が、あの映画の中にははっきりと描かれていた。

 アメリカという社会が、大人の男女の対を基本単位として、成立していたことがよく分かる。男女の対を基本単位とする社会とは、もちろん近代工業社会である。それは西洋先進国では当たり前の話で、イギリスでもフランスでも例外ではない。我が国では近代化が純粋な形で実現しなかったから、男女の対が明確化しなかった。そのため、対と親子が混在したままだった。

 対と親子の混在は、近代の本質を明確にさせない。我が国では、対と親子の問題が、鋭角的に対立しなかった。しかし、明確化させなかったツケは、少子化という形で突きつけられている。私の中で論理が精緻化されていないので、きちんとした論証はまだできないが、「単家族」「母殺し」に続く大きな概念に遭遇している予感がする。(2003.08.01) 

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