つれづれに     2004年4月

 「終身結婚制」を擁護するのは、山下氏だけではない。我が国のフェミニズムは、男性の家事参加を訴えるので、どうしてもその受け皿としての「家族」が不可欠になる。そして結局、結婚生活の賛美に繋がっていく。この体質は、我が国の女性運動には、染みついてしまっており、我が国の全フェミニストが共有しているといっても過言ではない。

 女性が個人としての自立を語るのではなく、女性が被害者だという論を展開すれば、シングルズを批判する結果になる。せいぜいシングルズも結婚した者も、何でもありといったところが、我が国のフェミニズムの限界である。婚姻制度の崩壊を、きちんと見据えている女性のフェミニストはいない。

 「家族、積みすぎた方舟」が翻訳され、そこに長い解説を書いている上野氏も、結局は「母子関係」に絡め取られている。フェミニズムは20世紀が生んだ最大の思想であるのに、旧来の母権擁護から自由になれないのは、ほんとうに残念で仕方ない。1979年に公開された「クレーマー、クレーマー」が、いまだに理解できていないのだから。(2004.04.26) 

 山下悦子氏を批判したが、氏の文章には、次のようなくだりがある。「大方の男性たちは、再生産システムにおける『終身結婚制』を回避し、独身を選択するようになる。いわば、シングルの増加は、利益を捻出するために効率化とコストダウンを執念で追求する企業の意志の産物なのである」

 山下氏が「終身結婚制」擁護派であり、シングルを批判していることは判るが、この論理は上野千鶴子氏など他のフェミニストとまったく共通である。上野氏は女性差別を批判して、男性社会をを攻撃し、企業を悪者に仕立てた。山下氏や上野氏に共通するのは、自立の基盤を探すのではなく、外部を批判して自分を正当化する論理展開である。我が国のフェミニズムは、男性社会や企業社会を批判するのみで、自分で自立しようとする姿勢がない。

 シングルズの増殖や結婚忌避は、個人化する社会の当然の流れである。農耕社会から工業社会への転換が、核家族という「終身結婚制」を生んだのであり、「終身結婚制」は時代制約的なものである。個人化する社会で、「終身結婚制」を擁護することは、大家族という家制度を主張した戦前と同じことになる。「終身結婚制」を擁護することは、時代錯誤以外の何もでもない。

 個人化する中で、いかに個人の幸福を守る制度を作るか。それが問われるべきであって、対を単位とする「終身結婚制」は、個人の自由を拘束するものとして否定されるべきである。産業構造と家族制度の不適合が、どれだけ人々を苦しめるか、我が国のフェミニズムは戦前の体験をまったく学習していない。(2004.04.25)

 名古屋の商社「岡谷鋼機」の女性社員が、「賃金格差をただすため」の長い戦いを続けてきた。「賃金や昇格で、女性差別を受けた」との訴訟を1995年の12月におこした。厳しい戦いだったろうと、言葉がない。女性というだけで、男性の半分しか給料がでない。

 原告の光岡さんは1967年に入社、藤沢さんは1962年に入社。以来、ずっと働き続けてきた。こうした先達がいるから、後に続く女性の働くことが受け入れられてきた。本当に頭がさがる。フェミニズムの脚光を浴びることなく、働き続けてきた女性たちは、もっともっと感謝されていい。

 同一労働同一賃金が原則である。しかし、正社員とパートやアルバイトに同じ仕事させながら、給料や待遇はまったく違う。そのうえ、我が国のコース別人事は、性差別を隠蔽する。働くことにおいて、性別や年齢は問わない、そういう環境に早くしたいものである。彼女たちが勝訴することを祈る(2004.04.22)

 今まで、我が国のフェミニズムを批判しても、書評での批判を除いて、女性論者個人を批判することは避けてきた。しかし、個人的な批判をして行かざるを得ないように感じる。女性史研究家を名乗る山下悦子氏から、「シングル時代と広がる心の闇」−晩婚・非婚化の流れ続く−という記事のなかで、次のような発言がでた。

 「やはり国家は、子供を生み育てた女性をきちんと優遇すべきだと声を大にして言いたくなる」(東京新聞.4月20日)という発言は、「見下される子供生み育てる女性」という副題のついた文章の最後であるが、これはまるで森元首相の発言かと、しばらくわが目を疑った。まったく時代に逆行した反動そのものである。

 女性が子育てから解放されたから、社会的な自立が可能になったのであり、子供と女性の関係を切ったのが、フェミニズムの最大の功績であったはずである。「クレーマー、クレーマー」が描いたように、子供を女性の独占から解放したので、その後の女性は自由を手にできたのだ。そして、男性にも子育てを期待できる。

 当サイトでは、我が国のフェミニズムの旧態然とした体質を、なんども批判してきた。そして、フェミニズムは、自民党右派と協調するのではないかと、危惧してきた。母性神話から自由になれない我が国の女性論者は、結局フェミニズムが理解できない。いつまでたっても、高村逸枝や市川房枝などの時代に止まっている。

 戦前の女性運動家たちが、結局、大政翼賛運動を支持していった。それに対する反省はまったくない。このままでは、女性運動は自民党以上の「母性翼賛」論者になりかねない。子供を産むという女性の特技は、男性の腕力との対比で語られるものである。女性が子供を産むことに拘る限り、女性の自立はなく、むしろ古い核家族へと収斂していく。

 個人化する社会では、子育ても個人化するのであり、国家が子育てに介入する部分は、少なければ少ないほど良い。にもかかわらず、このような発言が飛び出すのは、本当に絶望という他はない。(2004.04.21)

 当サイトでは、「近代」とか「近代化」という言葉をしばしば使いう。当サイトでは16〜7世紀に西ヨーロッパで始まった工業社会を、近代社会と考えている。だから、前近代・近代は産業構造の別称でもある。そして、情報社会に入ろうとする今、近代が終了しつつあると考えている。

 近代が終わるから、近代を突き放して相対化できる。そして、時代がよく見えてくる。昔作った「時代認識の構造」という表を、サイトに掲載してみた。これは当方が近代論を、今後まとめていく枠組みであり、誇大妄想的遠大な計画である。(2004.04.02)

 今から4年前に「ガールファイト」という映画が上映された。女性のボクサーが、恋人の男性ボクサーに、真剣勝負を挑む映画だった。我が国でも、状況は着々と変化しつつある。「ジョシカク」という格闘技が、女性の間で人気を高めつつあるらしい。

 10年以上も前、匠研究室の所員に、ボクシングをやる女性がいた。しかし、当時は女性のフルコンタクトは許されず、シャドーボクシングだけだと、彼女は嘆いていた。それが今では、ボクシングあり、キックボクシングあり、もちろんフルコンタクトの試合も行われている。

 「ジョシカク」のプロ選手は、すでに150人もいるらしい。女性が肉体強化を図ることは、実に自然なことである。今後も、この傾向は強くなりこそすれ、弱まることはないだろう。あとは、男性との試合に、いつ進めるか、それだけが男女平等からは遠望される。体重別で闘う競技に、男女別はおかしい。闘う女性に、心から声援を送る。(2004.04.01)

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