著者の略歴−中部大学人文学部専任講師。慶應義塾大学環境情報学部卒業(1995年)後、同大学院政策・メディア研究科修士課程(1997年)・博士課程修了(2000年)、博士号(学術)取得(2002年)。日本学術振興会特別研究員を経て、2003年より現職。専門はジェンダー研究。主な著書・論文に『総合政策学の最先端W新世代研究者による挑戦』(共著、慶應義塾大学出版会、2003年)、「再考 自衛隊と/の女性」(『国際ジェンダー学会誌』Vol.1、2003年)など。2002年に女性学研究国際奨励賞受賞。 我が国のフェミニズムが、無視してきた自衛隊を取り上げたこと自体は、とても優れた着眼点だと思う。 若い研究者の仕事として、賞賛したかった。 しかし、フェミニストを自称する筆者の言葉を引けば、「日本においては、軍事組織におけるジェンダー政策を推進するアクターとしてのフェミニズムは不在であった」P324 のは、考えられ得る最高の幸せだったと思う。
本書の読後感は、哀れみ以外の何ものでもない。 そして、すでに我が国のフェミニズムは働く女性たちから見捨てられている。 本書によって戦う女性たちからも、我が国のフェミニズムは見捨てられるであろう、との絶望感である。 大学フェミニズムは絶望である。 自衛隊内の女性たちに着目しながら、現実の女性たちを見ずに、大学フェミニズムというイデオロギーで裁断している。 イデオロギーで裁断が、どのような結果に終わるかは、ソ連の崩壊が明らかにしたではないか。 若いにもかかわらず、硬直したイデオロギーに染まっている筆者には、ただ哀れみを感じる。 中部大学に職を得た筆者に限らず、大学フェミニズムというイデオロギーに染まった女性は、大学に生活基盤をおくことができる。 そのため、生活の心配をまったくしなくなることから、知的堕落が始まるのだろうか。 あとがきで、指導教官を初め7人の教師たちに、本書が上梓できた謝辞を述べている。 しかし、筆者には教師を批判するところから、学問が始まる意識はまったくない。 本書は、既存の大学フェミニズムというイデオロギーに依拠して、自衛隊の歴史を総覧しただけであり、とても学問と呼べた代物ではない。 しかも、筆者には2002年に「第6回女性学研究国際奨励賞」が与えられている。 本書のセンスが肯定されるのでは、今後、我が国では女性学が有効な成果を生む可能性は、ほぼ零といって良いだろう。 先進国のフェミニズムが、様々な様相を見せながらも、女性の社会進出や軍事組織への参加を肯定している。 にもかかわらず、本書は女性の軍事参加を否定した論調を無前提的に維持しつつ、しかも最終的には自分の立場を曖昧にしたままである。 軍事組織「内」の女性を見据え、女性が担ってきた役割を把握すること、たとえ軍事化に対抗する道を選択するとしても、彼女たちを「男になった女」として切り捨てたり、敵対したり、沈黙したりするのとは別の道を、本書は探っていきたい。P27 との「序章」の言葉と裏腹に、自衛隊の女性たちを、自分の硬直したイデオロギーによって切り捨てている。 とりわけ、3章の自衛隊員へのインタビューでは、筆者の意に反する意見は、体制の思惑が内面化されているからだ、と切って捨てる狭隘さである。 自分の意に反する意見を、体制側の思惑が内面化された結果だといえば、どんな暴論も可能である。 ジェンダーの定義をめぐって、ジェーン・W・スコットを引用しているが、彼女は1980年代の人間である。 しかも、「ジェンダーと歴史学」でもわかるように、男女は平等であるべきだという平等論と、女性の固有性を認めという差異論に、分裂して収拾がつかなくなった論者である。 スコットの定義を引くことからすでに、筆者の視点は時代に無力だと知れる。 自衛隊は、男=体力=一流の戦力/女=母性=二流の戦力といった二元的な枠組みを、最初から最後まで、決して崩すことはなかった。P209 という筆者だが、まったく同様に、筆者は「女=母=平和」の図式から自由になっていない。 女=母でもないし、母=平和でもない。 むしろ女性は銃後の支えとして、好戦的ですらあった。 女性という性別と、女性という性差を分けることができたので、ウーマンリブがフェミニズムに脱皮できた。 筆者はこうした事情が、哀しいほど壊滅的に理解できない。 小銃が男性の体格をモデルに作成されているため、身長、握力、腕力、筋持久力、心肺能力、手指の長さ等が男性に比して低い/短い女性にとって、射撃訓練基準に到達することは不利になるそうである(婦人自衛官教育隊)。 このように、男性の基準が範型としてあるために、後期教育で男性自衛官の中に入っていく女性たちの中には、懸命にその基準に自らを適応していこうと努力する者がいる。(中略) 男女同一教育が、「女性」をひとまとめに見なす組織的視線を伴いながら、女性に自らを「劣った」性、「二流の自衛官」であると強く認識させる場として機能している可能性が考えられるのである。P234 ここまで読んできて、思わず吹き出してしまった。 1+1は誰がやっても2になるから、男女を問わず会計士になれるのだ。 1発の弾丸は誰が撃っても敵を倒せるから、男女を問わず兵士たり得るのだ。 兵士には男女別があるのではなく、強い兵士と弱い兵士がいるだけだ。 敵が女性の基準で攻めてくれればいいが、戦場ではそんなことはない。 戦闘とは、最も弱い部分をたたくことだから、女性基準の小銃隊は最初に攻撃されるだろう。 (PS:小型銃器が開発された結果、子供が兵士になった。) 筆者の思考に対して、もはや批判の言葉がない。 ただ哀れむだけだ。478ページで4000円という大著だから、本書の購入にはずいぶんと躊躇した。 だから丁寧に論じようと思ったが、お金をドブに捨てたような気がして、これ以上論じる気になれない。 大概の本は何かしら教えられるものだが、本書を読んで、驚きや教えられることがまったくない。 筆者の視線や発想からは、毛思想の勉強が足りないといった紅衛兵や、主体思想が理解できていないという北朝鮮を思わせる。 (2005.10.15) 参考図書 杉山隆男「兵士に聞け」新潮文庫、1998年 佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社 2001年 ¥1600 石井寛治「日本の産業革命:日清・日露戦争から考える」朝日新聞社、1997 井門満明「戦争論入門 クラウゼヴィッツ」原書房、1982 栗本英世「未開の戦争、現代の戦争」岩波書店、1999 多川精一「戦争のグラフィズム 「FRONT」を創った人々」平凡社、2000 ピーター・パレット「戦争論の誕生 クラウゼヴィッツ」中央公論社、1988 クラウゼッヴィツ「戦争論:上・中・下」岩波文庫、1968 塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」中公文庫、1983 シグマンド・ノイマン「大衆国家と独裁 恒久の革命」みすず書房、1960 ポール・ヴィリリオ「戦争と映画 知覚の兵站術」平凡社、1999 マイケル・ハワード「ヨーロッパ史と戦争」学陽書房、1981 信夫清三郎、中山治一「日露戦争史の研究」河出書房新社、1959 スタッズ・ターケル「よい戦争」晶文社、1985 戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984 ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」文春文庫、1998 戸井昌造「戦争案内 ぼくは20歳だった」平凡社、1999 レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955本を見る 石原里紗「ふざけるな専業主婦 バカにバカといってなぜ悪い」新潮文庫、2001 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 田嶋雅巳「炭坑美人 闇を灯す女たち」築地書館、2000 モリー・マーティン「素敵なヘルメット 職域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992 シェア・ハイト「なぜ女は出世できないか」東洋経済新報社、2001
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