著者の略歴−1930年−栃木県に生まれる、1951年−実践女子専門学校生活科卒業、1971年−消費生活コンサルタント、1973年−東京都小金井市消費生活相談員として就職、1993年−東京都小金井市消費生活相談員退職 現在−小金井市個人情報保護審議会委員、小金井市リサイクル会議委員、小金井市公民館企画実行委員、小金井市女性フォーラム実行委員 フェミニスト学者たちの書くものが、女性であることから抜け出ることができず、 専業主婦にまでエールを送っている。 そうしたなかで、筆者は専業主婦でありながら、専業主婦を消えゆくもの、専業主婦は消えゆくべきものと書いている。
女性運動は、女性一般の問題として出発したのは確かだが、 女性が社会へ出て働くことを指向したとき、ウーマニズムからフェミニズムへと孵化した。 つまり専業主婦の乗り越えが、フェミニズムの成立だったのである。 わが国のフェミニスト学者の書くものは、いまだに専業主婦に拘泥している。 ウーマニズムの地平から離れることができない。 市井にありながら、いや市井にいるからこそ、こうした視点が獲得できたのだろう。 学者たちの書くものと異なり、本書は論文調の精確さを装った文体ではない。 海外の参考文献の翻訳でもなく、自分の体験からでた自分の考えを自分の言葉で書いている。 だから、きわめて説得的である。 これだけの論旨を展開しながら、自分は素人だと謙遜している。 本書はまごうことなきフェミニズムの本である。 この64歳の優れた社会眼を持ったオバサンと、無能なフェミニスト学者たちとの違いはどこから来るのだろう。 自分の体験を交えながら、 性別による役割分担に支えられた専業主婦という存在の危うさを訥々と説いていく。 その多くは、すでにどこかで書かれたものが多いようには感じるが、 この著者が語るとき実に身にしみるのである。 自らの収入のない専業主婦という地位に安住することは、 若いときは幸福に感じるかも知れないが、それは夫という男性に支えられた幸せであり、 自分が自力でもっているものではないと言う。 自分の目線の高さからの正直な感想なのだろう。 筆者は悪妻になることをすすめているが、それは実に可愛いものだ。 筆者のいう悪妻とは次のようなものだ。 ・深夜に帰宅する夫を起きて待つのでなく、一定時刻後は床についてしまう。 ・下着など自分の衣類は夫に管理させる。 ・妻が留守にする時、食事のことは夫にまかせ、準備しておかない。 ・時には子供を夫に預け、妻が一人で外出する。 ・日を決めて、その日の家事一切は、夫がやることにする。P.210 きわめて当たり前のことのように感じる。 が、専業主婦として養われている限り、悪妻になることはできないだろう。 専業主婦とは夫に雇われたセックス付きの家政婦なのだから。 筆者は専業主婦として夫に尽くすこと自体が、夫を「ぬれ落ち葉」にするという。 この指摘は最近でこそ聞かれるようになったが、本書が出版された1994年当時には耳にしなかった。 むしろ女性は被害者だ、気ままで勝手な夫の犠牲になっているのが、主婦だという主張が声高だった。 一部のフェミニストは未だに、女性を弱者だといって女性への保護を求めている。 しかし、筆者は専業主婦の存在が、夫婦という関係の中で果たす役割を冷静に見ている。 専業主婦は決して一方的な犠牲者なのではなく、加害者でもあるのだという視点は、すぐれて近代人のものである。 女性が自らを弱者だと考え、弱者の地位にとどまろうとする限り、女性の自立は永遠にこない。 参考:
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