プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 お奨度:

著者:マックス・ヴェーバー−岩波文庫、 年   ¥800−

著者の略歴−1864〜1920、社会学者,経済史家.中部ドイツのエルフルトに生れ,ベルリン大学卒.初め法制史,経済史に関心を持ち,28才にてベルリン大学でローマ法,商法を講じた.後,経済学研究に没頭した。晩年政界に関係し,1914年の第一次政界大戦には彼独自の政論を展開したが容れられず,その政治活動は芳しくなかった。その研究は社会科学方法論,経済学,経済史,社会学等広汎な分野に亘っているが,リッケルトの科学方法論をもって基礎つけとなし,社会学方法論上膨大にして包括的社会学体系を遺したことは注目される。主要な著書:「宗教社会学論集」「経済と社会」「職業としての学問」「社会経済史原論」
 1920年に上梓された本書の論理展開には、何度読んでも驚かされる。
プロテスタンティズムの倫理が、資本主義を興隆させた、という話は
有名すぎるくらいに有名だが、本書の白眉はその論理展開にある。
しばしば誤解されるが、資本主義や近代社会が、どん欲な利益追求をもたらしたのではない。
いつの時代、どんな社会でも、多くの人はどん欲な金銭欲をもっている。
利にさといのは人の常である。
決して近代人だけが、欲深なわけではない。

 4千年の歴史をもつ中国人だって、商売のうまいイスラムの人だって、みな限りない欲望がある。
どん欲さが資本主義をうむなら、むしろ海賊でならした荒くれ者たちから、資本主義が生まれたはずだろう、と筆者はいう。
 
 貨幣を渇望する「衝動」の強弱といったものに資本主義とそれ以前の差異があるわけではない。金銭欲はわれわれの知る限り人類の歴史とともに古い。あとで見るように、金銭欲への衝動にかられて一切をなげうった連中は−たとえば「金儲けのためには地獄へも船を乗り入れて、帆の焼け焦げるのもかまわなかった」あのオランダの船長のように−決して、近代独自の資本主義「精神」が大量現象として(これが重要な点である)出現する、その源泉となった心情の持ち主ではなかったのだ。P54

そして、前近代の人々は、労働にたいして今日の近代人たちとは、異なった心性をもっていた、という。

 報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方が彼を動かす刺激だったのだ。彼が考慮にいれたのは、できるだけ多く労働すれば一日にどれだけの報酬が得られるか、ではなくて、これまでと同じだけの報酬を得て伝統的な必要を充たすには、どれだけの労働をしなければならないか、ということだった。まさしくこれは「伝統主義」とよばれるべき生活態度の一例だ。人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとさ、到る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調だった。P65

 これは納得できる。
生産力が土地におっている農耕社会では、いくら働こうとしても、土地の収穫限界性に拘束される。
工場労働のように、労働力と生産高は、比例関係にはない。
たとえば、天候には逆らえなし、土地は何年かに一度は、休ませる必要がある。
だから、土地の生産力の範囲でしか、労働は成り立たない。
無限の欲望がありながら、土地の生産性によって限定されていた。
つまり、前近代にあったのは、生産における欲望が限定されていたことであり、
近代になって解かれたのは、生産における欲望が無限に拡大したことである。

 働けば働いただけ、収入が増えると思えるのは、近代という工場労働が始まってからである。
ここで新たな労働規範が誕生する。
しかし、この労働規範は初めからあったわけではない。
何がこの労働規範をもたらしたのかと言えば、それはプロテスタンティズムの倫理だと、筆者は言う。

 プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力をあげて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それをまさしく神の意志に添うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。ピュウリタンをはじめとして、クエイカー派の偉大な護教者バークリーが明らかに証言しているように、肉の欲、外物への執着との戦いは、決して合理的営利との戦いではなく、所有物の非合理的使用に対する戦いなのだった。P342

 金銭への欲求ではなくて、質素さの追求、勤勉に働くこと、慎ましく生きることなどが、
結果として資本主義を導きだした。
むしろ、営利の追求を敵視したピューリタニムが、資本主義の誕生に貢献したのだ。
驚くべき鋭い論理である。
この指摘が意味するところは、歴史は逆説的だということだろう。
歴史を見る目が深められるようで、とても印象深く本書を読んだ。
 
 ここから問題は、二つ生まれる。
第一は、カソリックの反歴史性である。
いまでも南米などでは大きな勢力を誇るカソリックだが、カソリックが近代化を妨げている。
私にはそう思えて仕方ない。
伝統的社会の身分制を維持し、人間の平等さを教会が収奪してしまう。
そして女性の地位をおとしめる。
いまやカソリックは、貧しさを温存する犯罪者だろう。

 第二は、質素な生活をして勤勉に働くことは、工業社会の誕生には有効だっただろう。
工業社会では、時間あたり労働力が生産性をはかる基準だった。
だから、勤勉に時間を惜しまずに働くことは好都合だった。
しかし情報社会では、時間あたり労働では、生産性ははかれない。
むしろ、ひらめきとか独創性といったものが、生産性を高めるものだとすれば、情報社会をひらく倫理は何なのだろうか。

 第一の問題点はおくとしても、第二の問題点は深刻に考えるべきである。
質素、勤勉、天職、こうした倫理は、もはや役に立たないどころか、マイナスの働きになっている。
情報社会において、人間の存在証明をどう与えるかは、難しい問題である。
参考:
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
アドルフ・ヒトラー「わが闘争:上・下」角川文庫、1973
橋川文三「日本浪漫派批判序説」未来社、1965
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
森有正「近代精神とキリスト教」講談社、1971
山田勝「ダンディズム:貴族趣味と近代文明批判」日本放送協会、1989
姜尚中「オリエンタリズムの彼方へ 近代文明批判」岩波書店、1996
A・トフラー「第三の波」中公文庫、1982
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1995
富永健一「マックス・ウエーバーとアジアの近代化」講談社学術文庫、1998
橋本治「ぼくたちの近代史」河出文庫、1992
ポール・ジョンソン「近代の誕生:T〜V」共同通信社、1995
歴史学研究会「資本主義は人をどう変えてきたか」東京大学出版会、1995
歴史学研究会「近代を人はどう考えてきたか」東京大学出版会、1996
マルクス「資本論」青木書店、1953
I・ウォーラーステイン「近代世界システム T・U 農業資本主義とヨーロッパ世界経済の成立」岩波書店、1981
網野善彦「日本中世に何が起きたか:都市と宗教と資本主義」日本エディタースクール出版、1997
荒井章三「ユダヤ教の誕生 一神教成立の謎」講談社、1997
アンソニー・ギデンズ「近代とはいかなる時代か? モダニティの帰結」而立書房、1993
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
山本七平「日本資本主義の精神 なぜ一生懸命働くのか」光文社文庫、1984
ポール・G・ローレン「国家と人種偏見」TBSブリタニカ、1995
松本三之助「天皇制国家と政治思想」未来社、1969
牟田和恵「戦略としての家族 近代日本の国民国家形成と女性」新曜社、1996
ヨハネス・ジーメス「日本国家の近代化とロェスラー」未来社、1970
E・H・ノーマン「日本における近代国家の成立」岩波書店、1953
H・J・ラスキ「近代国家における自由」岩波書店、1951
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
神島二郎「国家目標の発見」中央公論社、1972
シグマンド・ノイマン「大衆国家と独裁 恒久の革命」みすず書房、1960
斉藤洋一「身分差別社会の真実」講談社現代新書、1995
佐藤文明「戸籍がつくる差別 」現代書館、1984

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