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芸術家として全盛を究めていながら、孤立していたアンディ・ウォーホール(ジャレッド・ハリス)に挑んだヴァレリー・ソラナスを、リリ・テイラーが演じている。ウォーホールの主宰していたファクトリーに出入りする人間模様を背景としながら、フェミニズムの先鋭だったヴァレリー・ソラナスへ捧げる賛歌である。 ウォーホールは規格品の大量生産という、工業社会の理念にしたがった芸術を打ち出した。それがゆえの評価であることが、いまから振り返るとよく判る。1950〜60年は、先進国で工業社会の限界が見え始めていた。そのあがきとも言えるし、新たな方向を求めた動きとも言える運動が、さまざまに起きつつあった。 ヒッピー、ドラッグ、セックス、ゲイ、ロック音楽など、その動きはそれまでの価値や道徳を根底から揺さぶっていた。ウォーホールは、それまでの一品生産の芸術を、工業社会の大量生産に置き換えたのだが、彼はたちまち時代に追い越される運命にあった。 ヴァレリー・ソラナスは、それまでの男性支配の社会に根底から反逆した。現在でこそ、女性理念によるフェミニズムは理解されているが、当時はまったく理解の外だった。どんな新たな理念も、まず現存する理念への反逆という形で登場せざるを得ない。 彼女も、男性支配を男性の肉体による支配と捉えた。これは正しかった。他の女性たちが、肉体以外の理由に支配の原因を求めたのに対して、屈強な肉体による支配が、男性支配の根幹であると考えたことは、まったく正当だった。しかし1960年当時、時代状況が女性の台頭を許しているのだと、認識するには早すぎた。
彼女が名乗ったSCUM(The Society of Cutting Up Men)は、男性支配に直接反逆した。男性の肉体に、女性の肉体を対置し、男性支配を弾劾した。ここからは、女性の肉体の賛美が生まれるし、女性性の復権が導かれる。彼女は、その後の女性運動の大きな基礎を作ったことは間違いない。 しかし、肉体に肉体を対置することは、同じことの繰り返しに過ぎない。同じ次元のことを対置しても、価値は崩壊したままで、その争いには決着をつけられない。肉体と肉体という同じ位相ではなく、肉体と頭脳の対置が次の展開を生んだのだが、心理学専攻の当時の彼女にそれを求めるのは酷である。社会的な変化への考察が抜けていたのだが、今からなんでも言える。 ウォーホールが工業社会の限界を展開してみせているとすれば、彼女はその先を見せようともがいていた。両者はいずれも、現状に対しての革命児であることには変わりがなく、彼女のほうが、より革命的だったに過ぎない。 時代に支えられない革命児は、先鋭化して崩壊せざるを得ない。彼女も革命する者としての近親憎悪から、ウォーホールを狙撃するに至る。時代は、彼女を許容するに至っておらず、彼女は極貧のうちに死んでいく。 映画のなかでみせた、路上で男に小銭をたかる彼女、煙草をくわえながら立ったまま男の性の相手をする彼女は実に潔かった。男性社会からの道徳的な非難は、彼女にはまったく無意味である。孤高の信念に生きる彼女は、もはや崇高な宗教家であった。 リリ・テイラーは下品でエキセントリックで、しかも先鋭的な女性を好演している。しかし、のろい展開、雑なライティング、映画としては感心した出来ではない。音楽もいまいち効果的ではない。集めたであろう膨大な資料を、うまく消化できていない。 ヴァレリー・ソラナスの実生活から離れて、彼女の主張をもとにフィクションとして構成したほうが、彼女の主張が伝わってきた。メアリー・ハロン監督も、それが目的だったのだろうから。ヴァレリー・ソラナスの映画化は、女性監督の誰かが必ずしなければならない仕事だった。フェミニズムの先蹤者に対する礼儀である。 1996年の映画 |