近代化を準備する者たち  第1部

 ここに掲載した写真は、1997年にパリの「ヴォエジ ド モンジュ」のロビーで開いた個展をもとに構成しています。

 アジアを歩いているときに、気がついたことがある。それは歩道で、また木陰で、東屋のようなところでと、至るところで男たちが遊んでいる。最初は、後進国の男たちは、女性たちに働かせて、自分たちは昼間から碁や将棋で暇つぶしかと思った。

 しかし、よく見ると遊んでいるのは、男たちだけではない。女性たちもしっかりと、おしゃべりや賭け事という暇つぶしの方法を知っていた。ただ、男たちのように遊ぶことに熱中しないので、それが目立たないだけだったのだ。それから男たちの遊びをよーく観察すると、そこには大変な規則性があることを発見した。ここは「近代化を準備する者たち」なる試論である。

  近代という工業社会の到来は、人類が初めて経験することだった。そこでは、いかなる社会秩序が要求されているのか、当時の誰も判らなかった。それまでの産業である農耕が要求したものとは、異なった価値観や社会的な秩序が要求された。農耕社会では経験が知の体系を支えたから、繰り返す思考が鍛えられ、加齢が知の体系をより高度なものにした。しかし、近代にあって不可欠なもの、それは科学的な考えに通じる論理的な思考だったのだ。

 近代に入ると、すべてが新たな眼で見られ、人間すら生まれ変わった。M・フーコーは次のように言う。
「18世紀末以前に、『人間』というものは実在しなかったのである。…『人間』こそ、知という造物主がわずか200年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったくの最近の被造物に過ぎない」

 人間しかも大衆という人間のなかに、論理的な思考が浸透していくのが近代と、ボクは考えている。大衆が論理を獲得したか否かは、庶民層への囲碁や将棋・チェス・ダーム等といった、筋=論理をおう遊戯の普及で計測できる。これがアジアの路上での発見だったのである。大衆がどのように論理的な思考を獲得していくか、それを何枚かの写真によって考察してみよう。


  第1部では、農耕社会の色彩がもっとも強い形を見せる。地面の上に、直接に何か書いて遊ぶもので、土地を相手に働いてきた人間たちの習性が良く残っている。(写真をクリックして下さい)

タンジオ タンジオ プノンペン ウボン ウボン
 大地からの恵み、そのおかげで生活ができる。農耕社会の毎日は、大地を相手にした労働である。もちろん、そこでの遊びも大地を離れることはない。人間たちは、地面の上で遊び始めるのだ。

 石蹴りやビーダマなど、子供のころの遊びはみんな地面の上だった。地面が書いては消し書いては消すことのできる無限の黒板だった。地面の上に桝目を書くのは、誰でもしぜんと思い付くのだろう。白い石と赤い石を駒にして始まったダーム。

 地面がコンクリートに覆われても、事情は変わらない。大人たちも地面に尻を据えてダームで遊ぶ。チョークでマスを書いている。駒になっているのは、方やゴムの切れはし、方や植物の茎である。

 歩道のタイル張りを利用して遊ぶ五目並べである。やはり大地の上で遊ぶことには変わりない。しかし、ここで遊んでいる若者たちの尻が、地面から離れていることに注目してほしい。

 下の段は、地面に直接書くのではなく、盤を使い始めている。これは人間が大地から離れる第1歩だろう。しかし、まだ尻を地面についていることに注目して欲しい。
ライチャウ ハノイ ハノイ プノンペン プノンペン

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