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「ハスラー」という男性雑誌を創刊した男の話だが、すごい映画である。どうすごいのか上手く言えないのはもどかしいが、制作者たちの主張が明確に表現され、それが納得できる形で伝わってくる。その直接性がすごい。主張を映像に置き換える方法が、リアルに直接的で迫力がある。映像表現技術の出来不出来を越えて、おそらく今年のナンバーワンだろう。この映画が作られたアメリカという国に、あらためて尊敬の念を感じた。
ラリー・フリント(ウッディ・ハレルソン)はストリップ・クラブの経営者だったが、客は平凡なステージでは満足しない。彼はより一層の経営向上を目指して、新たな打開策を考えていた。そこで彼は、ストリップ・クラブの会員雑誌を創刊することを思い立つ。当時すでに「プレイボーイ」はあったが、それはいかにもハイブローだった。もっとスケベな雑誌、普通の男が欲しがるような雑誌の創刊を考えた。 創刊2号にジャックリーン・ケネディーのパパラッチ・ヌードを掲載したことで、雑誌は飛躍的に売れた。それで資金をえた彼は、当時の道徳を無視した雑誌を作り始める。1970年頃は、まだ性的な表現が自由ではなかった。ピンナップと呼ばれる写真はあったが、社会規範は人間存在を丸ごと表現することを認めていなかった。そうしたなかで彼は、神に創られた人間には隠すべき部分はないと考え、当時の社会規範を逆なでするように、猥褻な表現に果敢に挑戦し始めた。 表現の自由は、高尚なもののためにあるのではなく、低俗なものが許されてこそ保証されたと言える、と彼は考えた。いかにもアメリカ的な、しかも正当な考えである。たとえば通信の自由があっても、葉書も切手も入手禁止にしてしまえば、通信の自由はない。同じように表現の自由を保証した制度があっても、その恩恵に浴せなくては、制度がないに等しい。ましてや高尚なものは、その表現が誰にも歓迎され、抑圧されることはない。高尚なものには、いつでも表現の自由は保証されている。表現の自由が必要なのは、低俗なものや反体制的なものにとってである。表現の自由を制限しているところでは、低俗なものの表現者には、表現の自由はない。 彼は「ハスラー」紙上で、大胆な性表現を始めたので、何度も逮捕される。その彼の伝記映画といってもいいが、映画の主題はポルノではなく、表現の自由そのものに焦点をあわせている。この映画の主題は、決してポルノを出版する自由ではない。なぜ、ポルノ出版の自由が必要なのか、それが主題である。それをラリーの人生に重ねて描いている。彼がいたから表現の自由が、本来あるべき姿に拡がった。おそらくミロッシュ・フォアマン監督は、現存するラリー・フリントに感謝し、全表現者を代表してこの映画を捧げるくらいのつもりで撮ったと思う。 何と評価していいか判らない。それくらいすごい映画である。あまりに感動した映画は、どうも上手くその感動が伝えられない。おそらく感動とは、自分の体験外のことなのだろう。自分の中から、はみ出した部分で感じているのだろう。そのため、感動したことを言葉にし直すのには、自分の中のない部分を自分の中に取り込む作業をしなければならず、時間がかかるのだろう。自己の外を取り込まないと、美しいとか感動的だとかといった、形容詞ばかりならんだ文章になってしまう。それでは、その感動は伝わらない。この映画で体験した感動の、半分も文字にできないもどかしさを感じる。 ラリーは、初めから表現の自由を目指したのではない。もちろんお金をもうけることが、第一の目的だった。しかし、お金をもうけるだけだったら、違法ぎりぎりのところを狙うか、合法的な商行為をしたほうが、はるかに効率がいい。逮捕されたり、告訴されたり、暗殺されそうになったり、そんな思いまでしてポルノ雑誌に拘ることはなかったはずである。しかし彼には、神に創られた人間のどの部分も猥褻ではないと言う信念があった。そして、誰でも好きなセックスが、猥褻であるはずがないという信念があった。この映画では触れられてないが、それには当時さかんだったヒッピーたちの人間解放運動が、彼に大きな影響を与えていたはずである。 映画だから、話は作られた部分もあったろうが、現存するラリー・フリント自身が地裁の裁判官として出演しているところを見ると、映画製作に協力こそすれ、反対しなかったと思う。だから彼の人生は、大筋では映画の通りであろう。そう考えると、ラリーの女性観は今から見ると古い。奥さんの支えを必要とした彼は、古いタイプの人間である。今ではポルノは、女性を物としてみていると女性論者たちからは目の敵にされるが、ポルノが表現の自由を獲得する先蹤者だった。何という皮肉。 表現の自由が大切だとは、誰でもが認める。問題はその中身である。もしくは表現されたものが、その社会の基準と抵触するときである。その時どう判断するかが、本当の判断である。総論賛成、各論反対は、総論反対と見なすべきである。ラリーが開拓してきた分野は、ポルノと馬鹿にされるが、まさに表現の自由の本質部分だった。弱くて、愚図で、何の取り柄もない人間が大切にされる社会がいい社会なのだから、既成の権威が認める範囲での表現の自由なんて、自由がないに等しい。ラリーの信念には頭が下がる。 映画の展開に戻ってみよう。ラリーはケンタッキーの貧乏な家に生まれたが、自立心は旺盛だった。ストリップ・クラブの経営者が雑誌の編集販売を手がけ、人間のクズと自認する自分の興味にしたがって、紙面を作った。アメリカは自由の国だ、それを大切にしたい。自由を守ることが、アメリカを大切にすることだという論理。自由こそアメリカで生まれた。自由=アメリカ、ここがアメリカの強さである。 戦争は誰でも嫌いだが、戦争の写真を撮ると時に表彰される。女性器やセックスは誰でも好きだが、それを写真に撮ると猥褻だという。これがおかしい、とラリーは言う。神が女性器を作ったのだから、猥褻ではない。獲物をあさる戦場カメラマンは、ヒューマニズムを隠れ蓑にした禿鷹である。戦場写真はそれがどんなに人間的であっても、戦争を美化している。まさにそのとおり。 彼は超ワンマンだったが、ラリーと一緒に会社を始めた弟ジミー・フリント(ブレッド・ハレルソン)や仲間の人間たちを、とても大切にした。ハスラー創設当時の社員を、最後まで雇用し続け、ラリーは仲間として遇してきた。企業が大きくなると、昔の仲間と諍いが起きるものだが、彼は古い仲間を大切にした。このあたりも今日的ではない。企業の売買が普通になった今では、彼はマッチョ感覚の古い資質の人間である。 ラリーは一人の女に縛られたくないから結婚しないといいながら、アルシアと結婚する。アルシアを演じたコートニー・ラヴは、エイズにかかってからの後半、異様な雰囲気の作り方が上手かった。痩せた体が、ガードマンに支えられて歩く様は、如何にもの感じである。ラリーがちょっと目を離したすきに、衰弱していた彼女は浴槽の中で水死した。裸の体が水中に揺らいだそのシーンは、ラリーの悲しさが表され、しかも深みのある絵画的な美しがあった。 最初の逮捕以来、ラリーはアラン・アイザックマン(エドワード・ノートン)という弁護士を雇い続ける。アランもよくやったが、新たな判例は常にラリーの逸脱によって生まれた。無学なラリーの信念が、法の枠を広げてきた。アランの法律論を、ラリーはしばしば裏切った。法の枠を広げることは法を破ることであり、法曹人たちは法を守る人々である。法の枠の中で論理を組み立てるように習慣つけられた弁護士には、新たな時代を切り開くことはできない。 アメリカでも最高裁の判事たちは、我が国と同様に年寄りばかりである。しかしその年寄りたちが、法と良心にもとづいて、革新的な判決を下す。「パロディは表現の自由に含まれる。公職にある者は、パロディの対象になることを甘受すべきである。表現の自由は…動機の如何を問わず、守られなければならない」という判決文が、実に感動的だった。裁判官たちは、プライバシーの保護や公序良俗を理由に、表現の自由に枷をはめなかった。制度が制度として機能できる条件を整えることが、裁判官の役割であると、彼等は自覚している。判決文が、長官の直筆だったと言うのも本当だろう。ただ脱帽。 キリスト教の伝道師ジェリー・フォルウエル(リチャード・ポール)は名誉毀損の裁判で負けはしたが、いまでもアメリカ中を伝導しているという最後のナレーションは、価値の多立を顕示し、これも感動的だった。そしてラリーに道徳的な立場から反対した男アーロ(クリスピン・グローヴァー)は、横領だか背任で起訴されている。信念がお金につながるのであって、金儲けが自己目的とならないという、この映画のもう一つの主題もとても心地よかった。 ミロッシュ・フォアマン監督はポルノに興味はないだろう。ただ、この主題とラリー・フリントの生き方に、関心があっただけだろう。ラリーの生き方は、きわめてアメリカ的である。金こそすべてと思われがちなアメリカは、我が国よりも遥かに信仰や信念が大切にされる国である。そのメッセージも自然に伝わってきた。この映画のすごさは、主題の表現を直接的に伝える完璧性だろう。絶賛である。 1997年のアメリカ映画 |