匠 通信     第123号−2003.5.23.

=■ごあいさつ======================================================
  ブックレビュー:売春は決して女性差別の象徴ではない。女性の性的自己決定権を否定するのは、いまやフェミニズムになってしまったのでしょうか。
 
      性への自由/性からの自由      ☆娼婦
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匠 雅音(TAKUMI Masane)
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1.性への自由/性からの自由    赤川学

 1992年に提出された筆者の修士論文が、本書の元になっているという。「性的主体化の装置としてのポルノグラフィ」なる視点が、本書を貫く筆者のモチーフらしい。ポルノといえば、現在では2つの側面がある。まず、猥褻な表現というものであり、今まで多くの論争は猥褻の定義をめぐってなされた。もう一つは、ポルノは女性にたいして、差別的な表現であるとするものである。
 
 筆者は、フェミニズムにきわめて近い立場に立っているが、性の商品化とか女性のモノ化といった論法をとらない。むしろ筆者にとって、性の商品化とか女性のモノ化といった論理は、知的な生産力がないという。猥褻つまり歴史性を分析することによって、女性差別にも応えていこうとしているようだ。しかし、本書がポルノの記述に成功しているかといわれれば、必ずしも肯首できない感が残る。

 フーコーなどの言説を引用しながら、主体という概念を多用するが、ポルノが主体化の装置といった視点で、問題にできるのだろうか。もっといえば、主体という言葉を使うなら、近代という時代認識が不可欠なはずで、ポルノという文書や写真などの意味を語る、歴史的な背景が問題になるだろう。

 筆者は、性科学とか恋愛といった近代特有の現象を扱いながら、表現されたポルノに拘る。しかも、ポルノと性科学の共犯関係をいい、ポルノや性科学の読まれかたよりも、両者のあいだの関係を問題視する。近代は人間なる概念を生みだしはしたが、庶民=大衆が登場するのは20世紀になってからだ。

 ポルノグラフィを受容する主体の登場は、大量安価販売で黙読を要求する近代小説の成立と、個室空間においてひとりで黙読するという実践様式の編成という二つの線分が交錯する場所において誕生した。それは同時にポルノグラフィを使ってオナニーをする実践の登場、すなわち「オナニーの補助道具としてのポルノグラフィ」という私たちが定義する意味でのポルノグラフィの誕生でもあった。P94

 この記述は、現代社会の価値観での読み込みのように感じる。というのは、均質な人間がいると前提することは、現代の感覚なのだから。しかも、わが国の艶本や春画も、ポルノと規定しているが、筆者のポルノにたいする定義では、いささか無理があるだろう。西洋における近代への道程で、ポルノが登場したととらえれば、わが国の江戸時代は近代の分析にはのらない。わが国の艶本や春画は、むしろギリシャの壺絵など比較されるべきだろうか。

 性的な心性が、性欲からも恋愛からも分離したといい、セクシュアリティという言葉を使うが、このセクシュアリティという言葉が、本書において実態をもたない。本書にあって、セクシュアリティは重要な概念であるにもかかわらず、通俗的な意味というだけで定義がなされず、きっちりとした輪郭が浮かんでいない。分析の概念が不明確なため、ポルノへの言及もぼんやりしたものに留まっている。

 筆者が男性であるせいでか、自分の性体験と密着しすぎているようで、とりわけ現代的な状況になると、いくつかの例を無原則につまみ食いしている。
 
 ポルノグラフィの描写は単なる性行為の記述ではなく、女性の身体を、女性に固有のセクシュアリティを描写することにあくまで力点があるのだ。とりわけ近年のアダルトビデオやポルノコミックの性描写においては、男女が性行為を行っているというコンテクストの一貫性を放棄してまで、男性の身体を不可視化して女性の身体の描写を優先する技法が発達してきている。P148

 具体例の取り上げ方が無原則で、自分に都合のいい例を拾っているように感じる。だから、上記のようにも言えるだろうが、快楽追求を優先しているとの反論も可能になる。また、女性同性愛の描写は頻繁にみられるのに対して、男性同性愛の描写は量的にも質的にも少ないというが、男性間の性描写はすでに独自のジャンルが形成されている。筆者の選択してきた例が、一般性につながるかというと、どうも疑問に感じる。

 例のあげ方が恣意的であるために、筆者のポルノたいするスタンスが不鮮明になっている。一冊の書物を読み終わったときには、主題にたいする筆者の主張が透けて見えるものだが、本書にはそれがない。そのために結果として主題すらが、現代のイデオロギー状況に寄りかかり、本書の論自体が飲み込まれてしまう。ポルノをめぐる書物であるなら、ポルノの一般理論へとたどり着いて欲しい。
 なお、本サイトも「遡及的想像力」で、ポルノを考察している。
(2003.5.23)
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2.娼婦   アラン・コルバン

 売春は女性差別の象徴であり、買春をする男性は人非人だと、女性運動家はいってきた。廃娼運動はかつての女性運動のなかで、大きな位置を占めていた。貧困により苦界に身を沈める、といった表現がまかりとおった時代、売春婦になることは厳しいことだったろう。

 普通の女性たちが、売春婦を下に見たのだから、売春婦は差別される者の象徴だった。しかし、現在ではいささか事情が違っている。本書は、フランスでの売春婦についてのべたもので、600ページの大著である。

 売春婦について著作をものにすることは、かつてならありえなかった。売春婦は学者の興味の対象にはならなかった。しかし筆者は、19世紀の売春の歴史は、この時代を理解するための最適の道の一つである、と確信している。売春をめぐる言説は、集団的な狂気つまり社会不安の交差点だ、といっている。
 
 二重の変化、つまり売春の状況が閉鎖的娼家から自由な娼家へ変化したこと、および娼家が性欲の排泄場から粋な好色趣味の場へ変化したことは、性に対する需要の二重の変化に対応している。すなわち、社会全体の人びとに誘惑という行為が新しい必要物とされるようになったこと、これまでは貴族やブルジョワなど少数の特権的な人びとだけが探求していた性を満足させるやり方が求められだしたことである。P176

 わが国に当てはめてみると、娼家が性欲の排泄場から粋な好色趣味の場へ変化したのは、江戸時代の中期である。この時代には、売春が現在とは異なったものだった。

 公認の閉鎖的な娼家に反対する公娼制廃止論者らの活動が生まれ発展するようになるのは、1870〜1880年代の終りを待たねばならない。それは、まさに、閉鎖的娼家の没落が大々的に始まり、目につくようになった時期である。嬉家に反対する言説は、すでに行動として表現されていたことを遅まきながら反映したものにすぎないように思われる。P176

 社会はその時代が解決できることだけを解決する。正義感だけでは問題は解決しない。売春もまったく同じだった。人身売買や強制的な売春を撲滅するには、貧困の退治以外に道はなかった。売春は女性差別と言うより、貧困の問題だった。豊かな社会になって、強制的な売春は姿を消した。

 その社会が肉体労働を優位としている限り、女性の台頭を促しても、それは不可能である。頭脳労働が優位する段階にきて、はじめて女性の社会進出が始まるのだし、それまでは女性たちも社会的な劣者でいることに甘んじる。肉体労働の優位する社会では、女性は社会的な劣者でいるほうが、むしろ有利である。

 労働者階級の男たちが性のはけ口としての売春をもはや必要としなくなったことにより、売春は、それまで社会からはっきり疎外されていた彼らにまがりなりにも満足を与えるというとっておきの役割を奪われたのある。そして、売春婦は増殖しつつあるが、窮屈な性のモデルに縛られているブルジョワを客として、次第に世間一般とは一線を画し、特殊な存在へと移行する。売春の機能が変わり、売春婦も姿を変える。この大きな動きこそ、都市社会のただ中で発展する資本主義の構造の新たな段階をまさしく反映していたのである。P265

と筆者が書くのは、1880〜1930年頃の話である。今からは信じられない話だが、労働者階級の家庭を守るために、女性労働者の数を減らすことが、社会主義運動のなかで決議されたりした。道徳推進として女性の人身売買禁止が、貴族や大ブルジョワたちの発議によってはじまった。そのため、社会主義の運動家は、女性解放に冷淡だった。

 現在でも、フランスには売春婦はいるし、売春が禁止されているわけではない。わが国では、売春は禁止されているが、売春行為は依然として行われている。しかし、現在の売春は当人の自由意志に基づくようになっている。先進国においては、もはや人身売買はない。そこで、本書の結論は、次のようになってくる。

 自慰や手淫、婚前の性交渉や同性愛、そして数々の避妊方法が快楽を一層容易にしてくれる今日に、金銭で買う愛を自由に行うことを社会が認める状態になっているかどうかを知ること、それがこれからの問題なのである。言い換えれば、女性に売春の権利を認めるかどうか、金銭を払うことで、持続的な一切の契約から解放されて、ある瞬間一時的な結合を持ちたいと願う者同士がカップルを組める自由を、社会が認めるかどうかという問題である。P495

 売春婦は終生の一夫一婦制に反する存在である。売春婦という女性自身に、経済力があるという理由で、彼女たちを敵とするのは専業主婦である。専業主婦を支持基盤とするわが国のフェミニズムは、女性の売春権を認めることができない。むしろ働く男性や働く女性たちこそ、売春婦の味方になる。

 身体をつかってかせごうとも、頭脳を使ってかせごうとも、ともに労働者であることに変わりはない。今日の先進国では、貧困から売春に転落する状況ではない。女性の自由な職業選択の結果として、売春は存在する。それゆえ本サイトは、売春権を認める立場である。先進国における売春は、公明正大に認められるべきだと考える。(2003.5.23)

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