1.「母系社会の構造」サンゴ礁の島々の民族誌 須藤健一著
人類は母権制社会から始まったという説が、かつて一世を風靡した。マルクス主義者が、母権制社会を人類の原始だといったので、女性論者たちもそれに便乗したわけである。しかし、人類史のどこを捜しても、女性が権力を握った社会は存在しない、というのが今では定説になった。
権力はそれを支える物質的な基盤を必要とするから、もし母権制社会があれば、女性が権力を握るための基盤は何か、が問われる。しかしその基盤には、何の回答も用意されていなかったのだから、女権先行論が崩壊するのは必然だった。
母権制社会はなくとも、母系制社会は存在する。母権と母系で紛らわしいが、母権制とは政治的な支配権力を女性が握っている、もしくは女性を通じて伝わるという意味である。それにたいして、母系とは女性の出自をたどって、家族などの社会集団をつくり、財産などを相続・継承していくことである。
母系制とは、継承のされ方であって、権力のあり方ではない。だから、母系社会だから女性が権力を持っているかというと、そうではない。母系制社会であっても、支配権は男性がにぎっている。
マードックに従えば、全世界の563民族のうち、母系出自に基礎をおく社会は、84を数えるという。しかし、母系社会は男性の権威や支配権が複雑に錯綜するので、父系制社会にくらべて社会の安定度が低く、近代的な産業社会には適合しない、といわれている。
本書は、ミクロネシア諸島のサタワルの一日の生活や、習慣などを詳しく記述しており、それぞれがとても興味深い。出産・誕生・子育て、思春期と性、結婚と離婚、死と儀礼など、民族学的な調査がされている。
先進工業国との接触により、母系制社会は徐々に浸食されてきているという。本書の最後では、母系制社会の今後を考察している。
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2.「狩りをするサル」肉食行動からヒト化を考える クレイグ・B・スタンフォード
人間は肉だけを食べるのではない。むしろ植物性のものを主にした雑食である。だから人間の食物のなかで、肉の役割は比較的低いと考えられている。しかし、筆者は肉の分配が、人間社会の構造を大きく規定したと考えている。
それを、サル類の肉の扱いから、人間社会を遠望する。本書はフェミニストたちに評判が悪いが、なぜすべての人間社会が男性支配であるかを、肉の分配から解き明かそうとするものでもある。
かつてはサルが集団で狩りをするとは、考えられていなかった。しかし、サル学の研究が進んだ結果、サルの社会にも優劣関係が存在することが明らかになった。オスのサルたちはより小さな生き物を、集団で組織だって捕獲することがわかった。
狩りにはメスは参加しない。メスと子供サルは、オスたちハンターのあとを追って移動するに過ぎず、オスたちの手に入れた肉をもらうだけである。ここで肉の分配権を手にしたオスが、サル集団の支配権を握り、強固な支配の構造をつくりだすという。
<狩猟行動は、ハンター間でコミュニケーションや行動の共同を必要とする。危険を伴う獲物を首尾よく追跡して、狩猟するために、知性とコミュニケーション能力に進化の過当な価値を置いた。男性はこれをした。そして、女性はしなかった。P47>
肉食行動こそ、人間の複雑な社会をつくった原動力だったという筆者の考えには、完全には同意できないものの、オスの間には優劣関係があり、すべてのオスがすべてのメスに優位するのは事実であろう。そして人間社会も、すべての社会において男性間に序列があり、しかも男性が女性に優位している。
<男性優位が出現するところでは、男性のより大きいサイズと強さの組合せ、男性の連合、そして女性同士の強い同盟の欠如に基づいている。P209>
という部分には、私は同意する。やはり人類に共通の何かが、男性優位の社会をつくったのだと思う。しかし、それがサルたちの社会から続いてきたのか、どうかは判らない。本書を、女性たちも冷静に検討することを望みたい。
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3.「社会人類学案内」 エドムンド・リーチ
社会人類学と文化人類学は、どう違うのだろうか。本書は、社会人類学のほうから、文化の翻訳という視点で書かれたものである。社会人類学を信奉する筆者は、マリノウスキーやファースに学び、レヴィ=ストロースに親近感を感じている。
人類学は西洋で始まったが、民族学や人類学の初期には、大きな偏見があった。
<その主張は、すべての非西欧人は、元来愚かで幼稚で野蛮で奴隷根性をもつものだという根本的な前提に依存していたからである。今日でさえ、人類学の学術用語には、植民地主義者の世界の文脈に起源をもつ価値観を重く負っているものが多い。P16>
そのうえマルクス主義者が、世界は同じ発展のプロセスを辿ると主張したので、余計に独断的で神話的な見方を広めてしまった。どんな社会でも、複雑な階層や様相をもっているにもかかわらず、人間は単純化して考えやすいのである。
フーコーは「人間は最近の発明であり、おそらく終わりに近づきつつある発明だ」といっている。それは近代の人間が均質になったと言うのであり、前近代の人間は多様であったという意味である。人間は単一だと考えたときには、人間に似ている人間に近い動物がいると言うことを意味する。だから、地球の隅々へと探検が始まったのである。
<たとえば我々の間では、殺人は公的反則の原型であり、自動的に警察の介入を招く犯罪なのだが、他方、たいていの性道徳の違反は、共住世帯の成員とその近い親族にのみかかわる問題である。しかし、多くの社会において、この状況は正反対となる。殺人は私的報復を招くが、しかし、性的違反の多くが公的処罰をひき起こす。なぜなら、それは儀礼的汚染状態を作り出し、全共同体を危険に陥れた罪とみなされるからである。P178>
人間が均質だと仮定するから、生物学的関係と社会学的関係を一致させて見るが、じつは両者には直結した関係はない。生物的な事実を社会性へと敷衍したのは、実証主義的な近代の思想であり、きわめて時代限定的なものである。生物学的関係と社会学的関係が、切れたものと自覚されたから、女性の社会的な台頭があった。
どんな人間社会も、子供たちを育てる組織を持ったいるが、それは必ずしも産業社会が意味する結婚や家族と同じではない。前近代にあっては、家族は血縁者だけではなく、多くの召使いをも含んだ概念だったし、親族が含まれたりもしていた。
本書は、人間を多角的に広く見るのに大いに役に立ったし、近代を相対化するのにも大いに役に立った。
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4.「発掘を科学する」 田中琢&佐原真著
考古学はロマンを求めると言われるが、古い物を調べるのは楽しいだろう。しかも、発掘された物を調べている限りは、平穏無事である。本書は、発掘された物をいかに、客観視するかという話である。考古学に科学する姿勢を失ったので、わが国の研究は50年遅れた、と言われる。ロマン、イデオロギーいずれも魅力的だが、危険でもある。
<古代人のトイレから、彼らの健康状態までわかってきた!寄生虫分析や脂肪酸分析をはじめ、レーダー探査、年輪年代学、プラント・オパール法、地震考古学、そして文化財保存の料学など、学際的研究の進展はめざましい。何がどこまでわかったか。各分野の第一線の専門家たちが興味深いエピソードをまじえてわかりやすく解説。>表紙の見返しから
少し気になるのは、定説が否定され、より古い時代まで遡れるようになった、という記述が多いことである。歴史が長いことが、日本人の正当性を保障したり、権威を高めたりすることはない。
どんな科学でも、いきなり新事実が発見されるわけではなく、まず仮説をたてるという作業がある。そして、その仮説を立証するという手続きにはいるのだが、前提となる仮説の当否が問題である。仮説にすでにイデオロギーが入ってしまう危険性はないのだろうか。古いというだけで価値がある、考古学とは不思議な学問でもある。
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5.「無文字社会の歴史」西アフリカ・モシ族の事例を中心に 川田順造
人類の誕生にくらべれば、文字の成立はずっと最近のことである。文字は考える手助けになりはするが、文字が思考の手段ではない。文字がなくても、思考はできる。
文字のない社会にも人間は住んでいるし、その貴重さにおいて文字社会の現代と何ら変わらない。彼等は文盲ではない。その社会には文字はないのだ。
文字がないということは、文字に変わる何かがあることである。それはおそらく音の伝承であろうし、言葉の伝承であろう。伝承は肉体を通じてなされるから、ときの社会性におい個別性に欠けると思う。それを伝える人が、覚える作業をし、復元のときには音にだす。どうしても当該社会のしきたりとか、習慣に拘束されるだろう。
文字は個別的に参照できるので、個人という概念とつながっているだろう。もちろん、近代的な個人概念とは違うが、文字の誕生は個人の覚醒を促したことは間違いない。だから、活字印刷の発明が、近代に及ぼした影響を、あれほど騒がれもする。時代が下ることは、個人に目覚めることであるのは間違いない。
文字には「秘儀性」と「規約性」があり、両者は比重を変えながら併存している。新石器時代が文字なしで実現されたように、文字は人類の知識に貢献したのではなく、権力支配の強化に役立ったのではないか、とレヴィ=ストロースはいう。文字の発生は、知の独占を許し、識字力のあるなしが権力化するというのは、必ずしも適切ではない、と筆者は反論する。
レヴィ=ストロースを表面的な見方だと批判するが、現状のわが国の学会はレヴィ=ストロースでさえ、ありがたがる状況ではないのだろうか。筆者の文字に対する不信と、無文字に対する信頼は、なかなかにおもしろい対比をなす。書斎的な思考にたいして、現場的な思考とでも言うのだろうか。 |