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 13/第拾三篇 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア  

■映画の幸福を象徴する海
 海に辿り着くことを最終目標とし、全篇を通じてひたすら海を志向し続けることは、映画にとって非常に重要な行為である。
 ジャン=リュック・ゴダールの代表作といわれる『気狂いピエロ』のラストシーンは、主人公のジャン=ポール・ベルモンドが、自分の顔にダイナマイトを結び付け、海の上で爆死する。あまりにも有名なラストシーンなので、今さら引き合いに出すのは恥ずかしいくらいだが、海でのラスト、そして消滅点としての海を、これほど端的に体現している映画は珍しく、映画の海を語る場合には、どうしても引用せざるを得ない。

 この『気狂いピエロ』がオマージュを捧げた映画が、溝口健二の『山椒太夫』であることも、映画史において広く知られた事実である。引き離された母と子が再会を果たしたラストで、カメラがゆっくりと横へ振られると、そこに広大な海が見えてくるという寸法だ。このカメラをパンさせることによって見えてくる海を、ゴダールは自作の『気狂いピエロ』で、どうしてもやりたかったようだ。

 両者の海は、いずれも海そのものを見ることによって、人を幸福な気分にさせてくれる性質のものである。母子の再会で終わる『山椒太夫』と違い、『気狂いピエロ』は主人公の死という対照的な結末ではあるが、たとえピエロが死んでも、そこにあるのは、死の哀しさなどでは決してなく、どこまでも広がっていく海がスクリーンに投影されていることに対する果てしのない悦びなのだ。

 『稲妻』の項で取り上げた成瀬巳喜男の映画には、なぜか海の登場が少ない。そうした中で、『秋立ちぬ』の海は稀な例といえる。父が死んで母方の親戚がある東京に出てきた少年を描いたこの映画は、たった一人の肉親である母が駈け落ちして少年の下を去り、せっかく仲良しになった少女までが引越してしまうという、何とも救われないエンディングを有している。そんな映画ながら、主人公の少年が少女と遊びに行く海のシーンだけは、実に幸福な安堵感に満ち溢れているのだ。

■消滅点バニシングポイントとしての海
 それでは、海とは映画の幸福だけを象徴するものなのだろうか。比較をしやすいことから、またゴダールを引用すると、例えば『カルメンという名の女』なる、『気狂いピエロ』から18年を経て作られた映画では、たびたび海が登場するが、そこにはもはやかつてのような幸福感は残っていない。

 海の色といえば青がイメージされるが、『カルメンという名の女』の海に青という色はない。むしろ茶といった感じの海に濁った白の泡が見えているだけだ。
 寂寞……そんな言葉が似合うだろうか。『カルメンという名の女』の海には、「もはやラブストーリーしかない」というゴダール本人の発言とどう関係するのかは不明だが、映画が映画として機能し得なくなった、あるいは映画が止まってしまった現状をそのまま表現しているかのような、行き場のない息苦しさが感じられるばかりである。

 タイヤと道路の摩擦で生じる煙から、煙草の煙へとつながれるショットなど、似た運動同士の連続や、これから展開されることをイメージショットとして逆行させた時間軸の交錯など、編集に細心の工夫を見せるこの『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』は、あくまで動きとしての映画を追求することによって、まるで伊藤大輔の映画を見るような幸福感を醸し出してはいる。

 ところが、この幸福感は、ラストシーンで、主人公の2人が海に到着した瞬間から、完全に消滅する。彼らが2人とも、生まれてから見たことのなかった海を、残り少ない人生における最後の望みとして見届けることができれば本望だったのではなかったのか。

 しかし、海を見ることによって死んでいくティル・シュヴァイガーの姿に、限られた生を生き抜いた満足感を見ることはなく、短い時間ながらティルとの友情を分かち合ったヤン・ヨーゼフ・リューファースも、隣で拠り所なく海を見つめるばかりだ。画面を支配しているのは、登場人物や、映画を見ている者の感情を超えて、ひたすら自らの存在感を強調しながら迫ってくる海に他ならない。

 なぜ、それまでの幸福感に作り手は敢えて別れを告げ、消滅と限界を前面に押し出した海を設定してしまったのか?

 もちろん、作者の心理的な理由など知る由もない。ただ、スクリーンから明らかに見てとれるものは、かつて私がこのコーナーで『ユー・ガット・メール』の楽天性を肯定してしまったことに対し、激しい一打を加えるかのような、映画の現在に正面から立ち向かう厳しくも真摯な姿勢である。

 今日、映画を取り巻く状況と、当然ながら映画そのものが陥っている危機には、楽天性など介入できる隙などなく、『和製喧嘩友達』などの復元は、焼け石に水的な影響力を示すのがやっとでしかない。

 100年と少しというわずかな期間で映画は滅びてしまうのか? もし、それに対して延命の策すらもできないのなら、俺たちも一緒に消滅してしまおうじゃないか。製作から脚本、そして主演までをもこなしたティル・シュヴァイガーの声なき宣言が、このラストシーンにおける海に、嗚咽が聞こえてくるかのように深く刻み込まれている。

     
  ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR / 1997年 ドイツ 監督:トーマス・ヤーン
脚本:トーマス・ヤーン 、ティル・シュヴァイガー
撮影:ゲーロ シュテフェン
音楽:ゼーリッヒ
出演者:ティル・シュヴァイガー 、ヤン・ヨーゼフ・リーファース 、モーリッツ・ブライプトロイ 、ルトガー・ハウアー
 

 

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 14/第拾四篇 忠次旅日記 

■下野邂逅篇
 1970年代後半、栃木の辺境に住む高校生にとって、映画情報を仕入れる数少ないメディアは映画雑誌くらいであった。その編集方針に対し、いぶかしい思いを抱きながらも定期購読していたものが『キネマ旬報』誌であり、「多感な思春期」などといった精神状態からは程遠い、ほとんど愚鈍ともいえる高校生に、その雑誌はいかなる精神的影響をも与えることはなかった。

 しかし、その雑誌がイベントとして企画した「日本映画オールタイムベストテン」でベストテン入りした、ある映画のスチール写真だけは、その後の記憶に大きな存在感を示しながら増殖を続け、今では愛用するコンピュータのスタートアップスクリーンにまでなっている。口に何やら縄らしきものをくわえ、片膝を床に着いて大きく腰を落とし、今にも腰の刀を抜かんとしているそのポーズ、そして異様な光を放つその眼に、えもいわれぬ胸騒ぎをおぼえたのだ。

 ベストテンに入った作品の中で、知らない映画はその1本だけだった。どうやら時代劇であることは確かなのだが、ベストワンになった『七人の侍』などとは比べ物にならない迫力を発散させている。この顔、この体勢……これはいったい何なのだ?

■江戸消失篇
 『忠次旅日記』を探す旅は、思えばその時から始まっていたのかも知れない。映画史の本や、監督である伊藤大輔の著書などに当たって、『忠次旅日記』が3部からなる構成を持ち、追い詰められていく国定忠次の姿を卓抜した話法で描き、絶大な観客動員を誇っていたことなどを知った。

 さらには、テレビの深夜番組で、マツダ映画社の保有する無声映画が紹介され、その中には『忠次旅日記』の断片も映し出されたため、まだ全篇を見ぬ『忠次旅日記』に対する期待は大きく膨らんでいった。大河内傳次郎の「乱闘場面集」を購入し、『忠次旅日記』だけでなく、『新版大岡政談』や『謎の人形師』といった、大河内全盛期の殺陣に興奮したものだが、そこに入っている松田春翠氏の活弁には、気がかりな一節が含まれていた。

 「……しかし、こうした名作のほとんどが失われてしまった今、遺されている数少ない断片から当時の片鱗を忍ぶ他はないのです……」といった内容である。「ほとんど失われてしまった」って、ここに映っているじゃないか、とその時点では事の大事を理解できていなかった。

 高校を卒業して辺境から東京へ出てきた私が、それまでの抑圧された環境から解放され、徹底的に映画を見始めたことは言うまでもない。しかし、そこに伊藤大輔のサイレント映画はほとんどなく、大河内傳次郎=丹下左膳の線から、導入部は『丹下左膳餘話 百萬両の壺』という山中貞雄の映画あたりとなった。

 『丹下左膳餘話 百萬両の壺』にいたく感動し、とにかく山中貞雄を見なければと、『河内山宗俊』『人情紙風船』と、立て続けに山中作品を見てきたところ、思わぬ袋小路に入り込んでしまった。山中貞雄の映画で、ほぼ完全な形で遺されているものは、以上の3本しかない、ということなのだ。しかも、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』では、クライマックスの剣戟シーンがまるごと削除されている。

 ふと松田春翠氏の言葉が甦ってくる。伊藤大輔のサイレント映画も見るには見たが、『御誂次郎吉格子』の1本しかなかった。『忠次旅日記』も『新版大岡政談』も、上映の情報はまったくない。それらの映画は本当に失われてしまったのか……。

 お茶の水にあるフランス語の学校で、山中貞雄映画祭が開催された。そこで上映されたものは、先述の3本以外、すべて断片か、あるいは脚本のみの作品しかなかった。これでいよいよ「失われてしまった」事実は、現実のものとしてのしかかることになってきたのである。

■竹橋見参篇
 1989年、小津安二郎のサイレント映画『突貫小僧』が発見、復元され、紀伊国屋ホールで上映された。パテベビーと呼ばれる、9.5ミリの家庭向けに売り出された短縮版を、いったんビデオにしてから、再び16ミリのフィルムにコピーするという、手の込んだ作業を経て復元された『突貫小僧』を見ながら、当時高まりつつあった「失われた映画発見」の動きが、にわかに現実味をおびてきた気がしたものだ。

 そして1992年、まさかと思えるニュースが飛び込んできた。『忠次旅日記』が、ついに発見され、しかも復元されて一般公開されるというのだ。日本中のフィルムコレクターを訪ね歩くという、山根貞男氏のような努力をすることもなく、ただ待ちこがれていただけの人間が、労せずして『忠次旅日記』を無責任に享受してしまうことが許されるのか? との思いもあったが、ふってわいたようなその吉報に、上映の日を心待ちにするばかりとなった。

 1992年10月10日、地下鉄東西線の竹橋駅を出て、国立近代美術館へと目をやると、早くも人の列ができていた。上映のどれくらい前だったかはよく覚えていない。ギリギリで第一回の上映に滑り込むことができ、予定の時刻を早めて上映が開始された。それはもう、驚愕の映像が連続し、これほどすごい映画だったのかと思い知らされ、会場となった近代美術館の講堂から出る際、次の回を待っている人々に、『忠次旅日記』の感激を片っ端からしゃべりたくてたまらなくなったくらいである。

■京都参拝篇
 『忠次旅日記』は、「甲州殺陣篇」「信州血笑篇」「忠次御用篇」の3部から成り、発見・復元されたのは「信州血笑篇」の2シーンと「忠次御用篇」の約90分程度である。完全な形には程遠いものの、剣戟シーンの断片を見ることとは比べ物にならない感動と衝撃があった。

 ならば、剣戟だけで確実に打ちのめされる『新版大岡政談』なら、どうなるのか? まだ見ぬ作品に対する想いは高まるばかりだ。その想いが高じて『新版丹下左膳』などという本を書かせてしまったりしたものだが、今日まだ『新版大岡政談』発見の見通しはついていない。

この『新版丹下左膳』を発行した1997年、京都映画祭が開催された。京都といえば、大河内傳次郎の造った大河内山荘の所在地。映画祭に合わせて、ぜひとも山荘を訪ねてみたかった。おまけに『忠次旅日記』や『丹下左膳 第1篇』も上映プログラムに含まれていて、好都合。わずか3日の滞在で10本以上の映画を見まくるスケジュールの中、嵯峨野にある大河内山荘へも出かけていった。

 静まりかえった竹林の中を貫く道を歩いていくと、その奥に山荘の入口が見えてくる。公園と比するにはあまりにも広大なその敷地を歩いていると、いつしか涙が流れていることに気づく。大河内傳次郎を追い求めて、とうとうここまで来たか、という感慨なのか。それよりもむしろ、大河内の霊が降臨してきた感が強い。ただ、誤解をされぬよう断っておくが、霊とは上の方から下へ降りてくるものではないことをこのとき確信した。したがって、「降臨」と表記するのは正しくない。霊とはどこか上の方にあるものではなく、地の下にあるものでもない。霊とは、人間の中にあるのだ。

■京橋再会篇
 大河内山荘への参拝、そして京都映画祭で『忠次旅日記』『丹下左膳 第1篇』を再見することによって、ひとつの区切りがついた気分にはなっていた。もちろん、『新版大岡政談』発見の大目標が達成されたわけではない。しかし、京都での満足と、新発見に対する半ば諦めの気持ちから、それまでの高ぶりが冷めつつあったのかも知れない。

 そこへ強烈な一打を加えたのが、『和製喧嘩友達』に他ならない。自分の知る映画史は、全体のごく一部でしかないことはわかっているつもりなのに、未知の部分を見せられると、根底から突き動かされてしまう。たった10数分のフィルムが、これほどの衝撃力を持っているのだ。『忠次旅日記』を、上映の機会があるたびに見ても、まだ足りないのではないか。そんな思いにからざるを得なかった。

 フィルムセンターでの上映は、京都映画祭よりも、遥かに状態が良く思えた。スクリーンの大きさ、見やすさなどは、フィルムセンターの設備が数段上である。そこに加えて、よけいな伴奏がついていなかったことも幸いしたのかも知れない。もちろん、日本のサイレント映画は、弁士と伴奏がついてこそ成立するものだが、それらがまるで映画にそぐわぬ性質のものならば、邪魔にしかならない。

 「信州血笑篇」における、大河内の忠次と、中村吉次の壁安左衛門による視線の交錯は、ただならぬ緊迫感をもって迫ってくる。「忠次御用篇」では、造り酒屋の番頭姿から、中風が悪化したのたうちまわる姿へと変わり、さらには手を動かすことすらままならぬところまで衰弱していく忠次が描かれる。人の顔が変わっていくことは、映画における最大の魅力の一つであるが、それを中心にすえ、現在と比べメイクの技術も乏しかった1920年代に、あれほどの変化を見せつけた「忠次御用篇」は、時代劇やチャンバラといった範疇を遥かに超越した、純映画としてとらえられなければならない。

 同時に、堕ちていき、追い詰められ、衰弱していく人間の変貌ぶりを、メイクなどではなく、あくまで動きを変化させることによってフィルムへ定着させた大河内傳次郎は、映画俳優というものの全てをこの一作で生き切ってしまったかに思える。もちろん、『新版大岡政談』以後の当たり役である丹下左膳や、戦後の老境に至ってからの数々の老人役も忘れることはできない。ただ、それらをたとえ見ていなくても、大河内はここで全てをやり切った、そう思わせるにはあまりに過剰な充実が、『忠次旅日記』にはみなぎっているのである。

忠次旅日記(1927年 日活大将軍作品)
監督・脚本・原作=伊藤大輔
主演=大河内傳次郎、中村英雄、伏見直江


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