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 25/第弐拾五篇 春秋一刀流 

■正統時代劇とパロディ時代劇の同時進行
 冒頭ショットは、いきなり空。1939年にゴダールか、と思うのは、時代錯誤もはなはだしいが、やはり冒頭に空のショットが飛び込んでくるのは、ショッキング、かつ胸踊らされるものがある。

 「この青空の下」(だったか?)「雨が降る」「血の雨が降る」……文句は正確に憶えていないが、こんな3つのタイトルがつながる。サイレント映画によく使われる手法を介して、合戦シーンが登場する。なるほど、これは血の雨だ。

 2つの陣営が接近し、合戦が今や始まろうというところで、ショットは変わり、両陣営の先頭に立っていた片岡千恵蔵と原健作の2人が、刀を地面に突き刺して一休みしている光景となる。

 この2人は用心棒で、合戦だと思っていたのは、やくざ同士による出入りであった。やくざ同士の出入りを、真横からとらえるそのショットが『用心棒』っぽいなあ、と感じていたが、陣頭に立っていた用心棒が抜け出てしまい、おまけに原健作の手当ては一両二分で『用心棒』の藤田進とご丁寧に同額なのだから、恐れ入る。

 『用心棒』は、決してオリジナリティ溢れる内容だったわけではなく、複数の脚本担当者たちが、ある程度戦前の時代劇をよく知り、観客や批評家たちが、戦前の時代劇を知らないか、あるいは忘れてしまっていただけのことなのだ。

 『用心棒』が、この『春秋一刀流』始め、いくつかの時代劇を前提にしたパロディであることはよくわかるが、『春秋一刀流』そのものも、すでに時代劇のパロディと化している。山中貞雄の時代劇が、マゲを着けた現代劇、と評されたとの同様、丸根賛太郎作品もそれに近い性質を持っている。

■美しい空間、美しい運動
 素晴らしいのは、その空間把握。宿屋で夜中まで飲んでいるシーンにおいて、全員が見えるショットでは、窓が開いて外の夜景が見えているのに、千恵蔵、原健作、志村喬の3人をとらえたショットでは、本来なら開けている窓が入ってしまう角度にもかかわらず、それが入っていない。

 本来なら、これは間違ったショットなのだろう。しかし、その間違いぶりがスリリングで、しかも作り手の確信犯的な、「まあ、細かいことは気にしないで……」といった態度が伝わるような気がしてくる。

 終盤、出入りの現場に千恵蔵が駆けつけるシーンでは、全ショットが、画面奥へと道が伸びる奥行ショットだ。出入りに乱入してからも同様。ラストは、奥へと走るのとは逆に、こちらへ向かって千恵蔵がひたすら走りながら斬り続ける。最近、横の世界に限定された時代劇を作ってしまった市川崑などには、到底不可能な空間把握能力が、ここに厳然と露呈している。

 それだけではない。千恵蔵がいったん斬り始めると、何人かを斬って見栄を切るまで、ショットは途切れることがない。千恵像の名人芸を堪能してもらうためだ。

 今、名を出した市川崑の貧弱な空間時代劇『どら平太』では、斬る運動をぶつ切りにし、おまけにスローモーションなども挿入して、斬るアクションへの陶酔をひたすら遠ざけている。

 リー・リンチェイ(ジェット・リーと呼びたくない気持ちはわかってもらえると思う)が、やっとその本領を発揮するのか、と期待された『ロミオ・マスト・ダイ』でも、『どら平太』ほどではないが、リー・リンチェイのアクションが、やはり引き裂かれたまま提示されていた。

 真に魅力的なアクションに、編集は必要ない。それは映画史自身が証明しているにもかかわらず、アクションの分断をひたすら続けるとは、これほど醜い行為はない。

 こうしたものに対する鬱積を晴らしてくれるのが、60年以上前の映画であるところに、映画史のはらんだ難題を、改めて思い知らされてしまう。

春秋一刀流
1939年日活京都作品
監督・脚色・原作 丸根賛太郎
撮影 谷本精史
音楽 高橋半
出演 片岡千恵蔵、澤村國太郎、轟夕起子、志村喬、原健作

 

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 26/第弐拾六篇 丹下左膳餘話 百萬両の壺 
公開書簡 (大河内伝次郎研究の第一人者・梶田章先生に宛てたもの)
2000年6月8日

梶田章 先生

 拝啓 向暑の候、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
 長らくご無沙汰いたしておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

 現在、三百人劇場で、山中貞雄と丸根賛太郎の特集が行われており、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』のニュープリント版が上映されました。

 フィルムセンター所蔵作品の表示が入ったもので、中はビデオ版で見ることのできるものとほとんど同じでした。どのような経緯で、このプリントが上映されるに至ったかに関しては、恐らく梶田先生が、完璧にご存じなのでしょう。

 このプリントを劇場で見て驚いたのは、セットの巨大さです。矢場に面した通りの向こうに、もう一本通りがTの字型に交差していますが、六十両の返済に気兼ねした安坊が家出をし、それを大河内が探して走り回るショットで、その巨大さが明確になります。この巨大さがあってこそ、大河内の走りも存分に生かされるというものでしょう。ビデオの方も数十回と見ていますが、しょせんテレビ画面ではとてもそんなところには気づきません。

 最近、時代劇の新作が何本か作られています。先日『どら平太』を見てがっかりしたのは、殺陣の際に、一人斬る動作だけでも、いくつかのショットに割ってしまっていることです。稚拙な殺陣をごまかすという姑息な手段としてならまだ許せますが、これを何か新しい映像表現であるかのように見せていることが、恥ずべきことではないでしょうか。

 さすがに『丹下左膳餘話 百萬両の壺』の道場破りでは、門弟たちを片っ端からやっつけるショットが、ワンショットでした。異なった方向から連続して攻めてくる門弟たちを、さまざまな体勢を見せながら打ちすえ、それでいてまったく崩れることのない大河内の腰。こういう俳優がいてこそ、時代劇は成り立つのですね。

 願わくば、大河内がやくざたちを斬って捨てるショットが戻ってきてほしいものです。先日、ブルース・リーの未公開フィルムが、いよいよ日の目を見そうだ、という話を耳にしました。「見たい」という願望が、いろいろなところで開花しているようで、非常に胸を踊らされます。

 質の向上が稀な新作に期待するよりも、過去のフィルムが発掘されつつある現状にこそ、映画の新世紀が開かれている――そう思えば、映画の未来はまだまだ明るいといえるでしょう。

 続々発掘されるであろう、失われた映画たちとの対面に向けて、みずからの感性を研ぎすませつつ、『新版大岡政談』を期待と共に迎える準備を進めたいと考えております。


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