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 33/第参拾参回 リプレイスメント 
■ オーナー・コーチ・選手=製作者・監督・俳優
 利益のことしか考えないオーナー。一筋縄ではいかない曲者揃いの選手たち。両者の間を取り持ちながら往き来するコーチ。何だ、映画作りの構図と同じではないか。 オーナーは製作者、選手は俳優、そしてコーチが監督。例えばハワード・ホークスの『ピラミッド』が典型的に、ニコラス・レイの『大砂塵』が奇形的に具現化したように、映画制作にまつわる人間関係を、映画の中における人間関係に移し替えて表現する手段は、これまでにも数多く実現されてきた。
 オーナー、コーチ、選手間の葛藤が、そのまま映画作りに投影されるとなれば、これは盛り上がらないはずはあるまい。しかし、そうした甘味な思い入れを簡単に許してよいものだろうか、と自分を戒めながら映画の進行に身を任せていると、登場人物たちの生活がフットボール一色に染められている事態が明らかになり、キアヌ・リーヴスが海底で見つけたボール型の盾を使って一人フットボールを始めてしまうファー ストシーンがいかに重要な意味を担っていたかを改めて思い知らされることになる。

■ 蝋燭とフランソワ・トリュフォー
 映画作りの映画は、映画史において何本か傑作が作られてきたが、今日ではそうし た題材に挑むことすら困難になってきており、映画作りの映画に成功したものを懐古することで、せめてもの秘かな愉しみとするしかないのが現状となっている。そうした一本、というか最高傑作として『映画に愛をこめて アメリカの夜』を挙げることができよう。この映画を監督したフランソワ・トリュフォーは、自らが映画内で映画監督に紛し、職業俳優としての自信をすっかり喪失してしまったジャン=ピエール・レオーに、「君も僕も映画の中だけでしか生きられない人間だ」という言葉を投げかけて諭している。
 このセリフに似た発言が、コーチ役のジーン・ハックマンから発せられるわけでないにもかかわらず、フランソワ・トリュフォーの発した言葉の重みが濃くなりはすれども、薄まることはまったくない。『リプレイスメント』を見ていることで、なぜか映画作りの映画→フランソワ・トリュフォーという意識の流れが強まっていくのである。

 決定的な瞬間は、キアヌ・リーヴスが、クォーターバックの座を追われ、恋人との待ち合わせに出向くこともできずに港でうちひしがれるシーンで訪れる。彼女は、自らが経営する酒場で、閉店後、2本の蝋燭を灯しながらキアヌ・リーヴスを待つ。いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう? この時間経過を示すのが、2本の蝋燭に他ならない。
 才能の有無とは、こうした表現で明らかになる。時間の経過を時計の針で示すようなら、それは無能の証拠であり、例えば山中貞雄のような天才ならば、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』で見せたように、焜炉で焼いているお餅の膨れ具合で表現することができるのだ。

 蝋燭に火を灯してテーブルに置いた後、蝋燭のショットは3つしかない。1つ目は半分くらい溶けた蝋燭を彼女が横から見つめ、次は3分の2ほど溶けた蝋燭を後方から見つめ、最後は残りわずかな蝋燭を吹き消すだけだ。『リプレイスメント』に見え隠れしていたフランソワ・トリュフォーの影が、ここで完全に視覚化される。先述の『映画に愛をこめて アメリカの夜』で蝋燭のトリックを重要なシーンとして用意したトリュフォーは、『緑色の部屋』という、もっと過激な形で蝋燭が主役となる映画を作ってしまった。映画史において蝋燭と最も親密だった作り手の一人であるフランソワ・トリュフォーを現代に甦らせるという暴挙に近い離れ業を『リプレイスメント』はやってのけたのである。

■ トリュフォー、小津、そして現代へ
 映画作りの映画に近づくことを、もはや禁ずることはない。『リプレイスメント』の意向に無抵抗で身を委ねようではないか――、そう思う間もなく、もっと強烈な一瞬が不意に襲ってくる。それは、フランソワ・トリュフォーを降臨させた蝋燭を吹き消す一瞬である。蝋燭の照明がなくなれば、画面は真っ暗になるはずだ。しかし、蝋燭の炎が消えてわずかな間があってから、画面は暗くなる。

 スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』じゃないのだから、蝋燭の照明だけで撮影するなんてことはしていない。これはその証しなのだろうか。画面内の照明(ここでは蝋燭)を消してから、ほんのわずかな間をおいて暗闇を導入する――、これこそ小津安二郎が繰り返し用いてきた手法であり、映画を最も実感できる瞬間の一つであった。そんな瞬間がこうしてさりげなく再現されるところに、フランソワ・トリュフォーの降臨を上回る衝撃を憶えずにはいられない。
 この陶酔感は、クライマックスのゲーム中も持続し、いささかも下降することはない。そこで待っているのがジーン・ハックマンの笑顔というラストシーンだ。主役を支える人物の笑顔で映画を締める。何と幸福な結末なのだろう。ジーン・ハックマンなる素材があってこそできる顔のアップというラスト。この笑顔を見続けていたい気持ちを裏切るかのように、エンドタイトルが始まってしまう。

 だが、それでいい。映画には終わりが不可欠なのだから。ラストに登場する、主人公を支えてきた人物の笑顔。『ガッジョ・ディーロ』で、主人公のロマン・デュリスを支え続けたローラ・ハートナーが、オンボロ自動車の中でまどろみから目を覚ましてロマン・デュリスに微笑みかけるラストシーンが、すぐさま思い浮かんでくる。フランソワ・トリュフォーや小津安二郎といった映画の大家というべき存在との交信を経て、共に苛酷な現代を生きるトニー・ガトリフへ向けた目配せをするこの『リプレイスメント』は、映画の現在を優れて体現する映画として両手を広げて迎え入れたくなる味わいを、全面にみなぎらせている。

 

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 34/第参拾四回 ダンサー・イン・ザ・ダーク 
■ 膠着の映画
 ターザン山本氏は、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を、「世界が人間が膠着しているため、ひとりの女性の真実の生き方がわからなくなり、見えなくなり、救えない」と評していたらしい(※1)。なるほど、これは膠着を描いた映画だ。息子の治療を実現したい母親が、どうしてもそこに辿り着けない。親切だと思っていた隣人が、とんでもない妨害を施してくるからだ。物事が、主人公の望むべき方向へと一向に進展しないもどかしさは、正に膠着している状態である。

 膠着を描いた映画は決して少なくない。ここで挙げるのももどかしいくらい、この世には無数に存在し、いちいち言及している余地などない。にもかかわらず、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がこの場で語られることになったのはなぜか? それは膠着を描いたからではなく、この映画自体が膠着してしまっているからなのである。
 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の核をなす本質的な特徴とは、終始安定することなく動き続ける手持ちカメラの使用に他ならない。

 それは、クレーンを用いて、ある空間から別の空間へと移動していく溝口健二のカメラ移動とも、映画の全編をワンショットでとらえるべく人物の動きを追い続けるアルフレッド・ヒッチコックのカメラ移動とも、曇天の中に静止した、あるいはわずかに動き続ける対象物を苦痛と紙一重の息苦しさで画面に収めるテオ・アンゲロプロスのカメラ移動とも違ったものである。
 強いて言えば、劇場用映画を作り始めた時期のジャン=リュック・ゴダールに近いカメラの移動が、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』において実現されていることになる。カメラを固定することなく、今では素人のビデオ撮影でも行われないような、不安定な運動を続けさせる。これはこれで映画の撮影方法に対して、それなりの試みを示していることになろう。このカメラ移動…というか、不安定なカメラに関しては、断じて膠着ではなく、映画が生きている時間である。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の膠着。それは、時折挿入されるミュージカルもどきのシーンに他ならない。それまでに築き上げてきた、不安定なカメラという最大の特徴を台無しにし、歌と踊りを固定カメラでとらえているのだ。
 なぜ、歌と踊りに限っては固定カメラにするのだ? あの不安定な動きで歌と踊りを追えるのだったら、それはかなりの成功だったはずだ。なるほど、複数の人物が歌い、踊る、躍動的なシーンは、手持ちカメラではとらえ切れないという物理的な問題があっただろう。また、映画の登場人物同様に、作り手が、ハリウッドミュージカルへの愛着を抱いていたのなら、歌と踊りはハリウッド風に、と考えてのことだったかも知れない。

 制作の意図や撮影の条件はどうあれ、それらが結果としてすべて膠着へと陥ったことだけは確実であることが、この映画の不幸である。原因は既に明確だ。この映画の作り手が、ハリウッドミュージカルへの愛着など、実は微塵も抱いておらず、むしろ、ハリウッド映画(アメリカ映画ではない)と正面から対峙する困難を避けつつ適度な距離を保ちながら、自分の身は安全圏に置いたまま姑息な自己表現に終始しているだけに過ぎない、ということである。

■ ドキュメンタリーとフィクション
 仮にもハリウッドミュージカルを映画の中に取り入れるなら、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のような、物語内における予定調和などとってはいけない。現実の中に、歌と踊りが突然介入することこそ、ハリウッドミュージカルの悦びに他ならないところへ、新たな理由づけを勝手に施し、まるで主人公の幻想や願望などにすりかえようとしている。
 現実と幻想の共存。イングマール・ベルイマンやフェデリコ・フェリーニといったエセ作家たちが、映画が誤った方向で理解されがちだった時代に、これぞ芸術とばかりに大手を振って見せびらかしていた表現を、今の世にも繰り返しているとは、時代錯誤を通り越して、映画という表現方法を放棄しているに等しい行為だ。

 私は常に「映画においては、すべてのドキュメンタリーはフィクションであり、すべてのフィクションはドキュメンタリーである」と主張している。これは詭弁でも何でもない。映画に、いや、フィルムにいったん撮影されたものは、そこに演出が介在しようがしまいが、対象物(人物であれ、風景であれ、物体であれ)のドキュメンタリーとなる。演出がなされていない対象が撮影されたとしても、それがフィルム上に定着されれば、もはや虚構の一部でしかない。

 物語、現実、思想、幻想などを殊更に主張することなど、そうした言語的な要素がすべて無と化し、ただフィルムに定着された対象だけが厳しく人の目にさらされる映画においては、ひたすら無力となる他はない。映画という土壌において、言語的な伝達手段で何かを表現しようなどと考えることは、映画の可能性も限界も無視した、映画の恐ろしさと無縁で居続ける、言ってみれば、映画が世界的な全盛を見る以前の19世紀的な感性とならざるを得ないのである。

■ 映画へ埋没する幸福
 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が日本公開された2000年12月23日に、極めて対照的な映画がひっそりと公開された。『ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説』は、映画との安全な距離を保とうとする無意識の姿勢によって、映画とはかけ離れた世界に陥ってしまった『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とは決定的に違う、映画へとひたすら近づいていく映画であるがゆえに、この上なく感動的だ。

 『ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説』は、人に聞けば、テレビ番組の企画から始まったらしい。ビデオレコーダー(最近では、デジタルビデオレコーダーというのが主流になりつつあるとか)は無論、テレビという機械すら家に置かない私が、テレビ番組の企画と言われても、何ら理解はできないのだが、企画の発端がどこにあろうと、映画としての結果が良いのだから、何ら問題はない。
 素晴らしいのは、その制作に対する姿勢である。インドに行って、インド人俳優やスタッフと協力し、歌も踊りもアクションも入れた、本場の内容と変わらないインド映画を作りたい。この意志が画面からひしひしと伝わり、歌や踊りの、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とは比較にならぬ楽しさ以上に、映画の中心部へと愚直にも突き進んでいく過程が、胸を打つ。

 実は、映画とは、誕生して100年と少しを経過した今、さほどの進歩はしていない。映画における2つの偉大なG、すなわちD・W・グリフィスと、ジャン=リュック・ゴダール。この2人が作った映画を比べ、ジャン=リュック・ゴダールの最高傑作が、D・W・グリフィスが1910年代に作ったあまたの一巻物にとても及ばないことは、映画史の常識である。

 何か新しいことをしようとしても、映画という広大な海は、すでにどこかでそれを行っているのだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の浅はかさとは、世間で言われるような「ミュージカルの手法を取り入れた」などの「新しさ」をやってやろうとしている恥ずかしさ以上に、手持ちカメラの不安定な画面で「新しさ」を作り出そうとしている点にある。ゴダールだって既にやっていることを今頃やって何が「新しさ」か。

 私事ながら、それなりの大河内傳次郎ファンである身として、失われたフィルムとされている『新版大岡政談』は、絶対に見たい映画であり、それゆえ『新版大岡政談』の主人公である丹下左膳の小説を新たに書かせ、強引に出版してしまった。おかげでいくつかの映画会社から映画化の話があり、この小説の書き手は、映画監督と共に会社を設立して映画化実現へと努めているようだ(※2)。

 私は、この映画化にはまったく関わっていないが、制作に当たる人間たちに前々から言っていた希望は、『新版大岡政談』の完全リメイクをやってほしい、というものだった。フィルムが残されていない映画の完全リメイクとはまた、えらく無責任な物の言い草だが、わずかに残されているアクションシーンの断片だけでも再現できたのなら、それはたいへんな偉業といえる。いったいどこのスタントマンが大河内の殺陣を再現できるのかは、大いに疑問だが。
 まあ、『新版大岡政談』はともかくとして、最近のアメリカ映画界におけるリメイクの流行とは違って、完全リメイクというものを実現することは、非常に困難な、いや、気狂いじみた作業であり、しかしながら、映画へと近づく一つの有効な手段である。近年では、ガス=ヴァン・サントの『サイコ』が、それに近い試みをしていたが、残念ながら、自分の解釈が入り過ぎ、完全リメイクには至らなかった。

 映画にとって「新しさ」とは、あまり必要とされる要素ではない。むしろ、既存の映画に近づいていくことの困難と価値を知った上で映画を作っていくことが、映画史に対する真摯な態度を貫くことに通じる。映画は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の「新しさ」を排除する。そして、『ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説』の愚直さを歓迎する。映画によって祝福されるものと拒絶されるもの。2本の「歌と踊りの映画」は、それらを残酷に露呈しているのである。

(※1)ターザン山本氏の有料コンテンツ「Minor Power」内、「シネマ&プロレスリング」より
http://www.nifty.ne.jp/minorpower/のサイトで好評連載中です。 (更新、運営(有)ゆうじん)
(※2)株式会社SAZEN


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