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 56/第五拾六回 初恋のきた道
■ジョン・フォードか?
 曲がりくねった道を、画面の奥から、馬車がこちらへ走ってくる。画面の手前に近づいてきた馬車の前をふさぐように現れるのは、羊の群れだ。
 ジョン・フォードではないか。曲がりくねった道という場面設定、画面を構成する、馬車や羊などの要素、そして画面前方へ向かってくる運動。
 ジョン・フォードの画面が再現されていることに、まずは驚かされる。しかも、その後には、玄関の扉を開いて外景が映し出され、人物が飛び込んでくるというおまけまで用意されているのだ。

■距離の映画
 映画の冒頭に、ジョン・フォードをもってきたことで、何かを宣言しようとしたかどうか。その意図は定かでないが、曲がりくねった道と馬車の運動によって、距離が決定的に重視されていることは明確である。
 この映画が、距離の映画であることが、はっきりと意識されることとなるのが、学校の建築現場から遠くに位置する古井戸の存在が提示されてからだろう。井戸と家の往き来は、主人公デイが建築現場の教師を見るためという理由以上に、距離として、遠さとして純粋に意識される。
 昼食の用意は、最も興奮させられるシーンの一つだ。厚い木板の上に、食事の入った碗が置かれる。その位置がまた重要で、先生はいちばん遠くにあるものを手にする、と台詞の上でも、距離が語られている。どのようにしてデイの昼食を教師が手にすることになるのか、緊迫感は急上昇する。
 教師が町へ帰るシーンで、デイは必死にそれを追いかける。それは距離を縮めようとする行為に他ならない。餃子が地に散乱させられて、そのシーンは終結するが、そこでこみ上げる悲しみは、教師との別れゆえではなく、デイが距離との戦いに敗北したからである。
 教師の帰りを、雪の中で待つデイ。ここで馬車が登場し、この上ない幸福を味わえるのは、その馬車に教師が乗っていたからではなく、馬車が近づいた、その距離ゆえである。
 これほど徹底して距離を描こうとした映画は珍しい。現在のデイが、先生の遺体を担いで遠路を歩いて帰るという、極めて非合理的な旧習にこだわったのは、説話の上でも、この映画は距離を描くものだ、と宣言しているようである。

■距離への視線
 思えば、チャン・イーモウ(張藝謀)は、距離を描くことに対して極めて敏感、かつ繊細な作り手だった。先日見直した『活きる』では、戦場から帰った夫が妻のところへ駆け寄り、距離を喪失させることで幸福感を呼び起こし、嫁ぐ娘が両親の家から離れていき、距離を拡大することによって涙を誘った。
 最新作の『HERО』では、暗殺者が、標的である皇帝に近づくことを、百歩や十歩などの歩数を提示し、さらには蝋燭を設置することによって表現していた。暗殺者が剣の最高境地をつかむ瞬間、皇帝が真の治世を悟る瞬間は、両者の距離がなくなり、剣を介在して接触した瞬間ではなかったか。
 しかし、それらの映画も、この『初恋のきた道』に比べれば、まだ密度は低い。距離を描くことを純粋に実行したこの映画は、チャン・イーモウ(張藝謀)の比類なき傑作に他ならない。
 現代中国映画史上に出現した美女チャン・ツィイーのアップをこれでもか、と見せ続けることは、美女のアップがあれば映画は成立する、という映画史上の原則にしたがい、商業としての映画に、しっかりと折り合いをつける、むしろ戦略的な選択であった。
 そうした美女のアップが、時として邪魔に思えてくるほど、この映画における主役は、距離という、目に見えない抽象的な概念であった。距離だけではなく、風、温度など、目に見えないものを、どう表現するか? それは、映画の生命に関わる選択手段なのである。

 

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 57/第五拾七回 ヴァン・ヘルシング
■徹底した高さの追求
 アクションシーンは、そうでないシーンがあってこそ、その存在意義が際立つ。この映画くらい、アクションシーンが続出すると、映画における時間の継続性から意識が遠のき、それぞれのシーンに集中することができなくなってしまう。
 そんなことを考えながら見ていても、一向にアクションの密度が低下することはない。何かに憑かれたがごとく、ひたすらアクションシーンを積み重ねている。ここまで濃密になると、何か別の次元に踏み込んでいくような気がしてくる。
 その答えは、実は冒頭からすでに示されていた。高さなのだ。高いところと低いところを、いかにして自由自在に往き来するか? 言葉にすれば、たったそれだけのことを、場所を変え、人物を変え、怪物を変え、あらゆる角度から追求しようとしている。
 城、崖、山、木、吊り橋…。それぞれ、高さには大きなちがいがあるものの、あくまで上と下の世界だ。中には、吸血鬼が天井からぶら下がる、という天地を逆転させた描写が入り、より豊かな高さの表現を展開している。
 映画を見る前に、監督がスティーヴン・ソマーズであることを知り、この映画は大丈夫だな、との確信をいだいたが、大丈夫どころではない、スティーヴン・ソマーズは、加速度を増して進化を遂げていた。
 思えば、『ジャングル・ブック』に大いなる発芽があった。森林の中で、動力機械を排しながら、上下の移動をする映画が、『ジャングル・ブック』であったからだ。それに続く傑作『ザ・グリード』では、豪華客船内という、あえて限定された空間を設定し、恐怖と緊張を高揚させた。残念ながら、『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』の2作は、高さの追求よりも、横、そして時間の概念に比重が置かれたため、スティーヴン・ソマーズの力が十分に発揮されていなかったことがわかる。
 そして、この『ヴァン・ヘルシング』では、監督の他に、製作と脚本をこなし、自分の意志を完遂させるに近づいたわけだ。鎖から解き放たれたかのごときスティーヴン・ソマーズは、とうとうアクション映画、ホラー映画、吸血鬼映画などのジャンルを超越する、徹底した高さの映画を実現してしまったのである。

■映画と映画の越境
 映画において、評価されるべきは、音楽や文学、絵画などへの思いをそこで表現することではない。映画が志向するのは、映画だけで良い。それが、オマージュを捧げる、引用する、といった行為によって具現化される例は多い。
『ロード・オブ・ザ・リング』三部作で、オーランド・ブルームは、弓の名手を演じた。『トロイ』では、彼は節制のない弟役で登場するが、驚くべきは、エリック・バナ扮する兄のヘクトルが死んだ後、弓の名手となって、仇敵のアキレスことブラッド・ピットを弓で倒してしまうことにある。
 同じ俳優が、ほとんど同時期に、弓の名手を演じる。自由に往き来するのは、上と下だけではない。スティーヴン・ソマーズは、映画から映画へ、にわかには信じられないほどの大胆さで、越境することを可能にしてしまった。
『ロード・オブ・ザ・リング』と『トロイ』のオーランド・ブルームは、多少の偶然性が感じられるものの、『ヴァン・ヘルシング』は、はるかに確信犯的な映画間の往き来を実現させている。
 ヒュー・ジャックマンは、『X-MEN』『X-MEN2』の2作で、すでに狼を連想させるウルヴァリンを演じており、『ヴァン・ヘルシング』では、狼男に変身する。
ウィル・ケンプが狼男にされることに対しては、多少の悲劇性が漂っていたが、ヒュー・ジャックマンが狼男になることに対しては、ある種の期待が感じられるのだ。
 『X-MEN』2作の記憶がある限り、ヒュー・ジャックマンが狼男になっても何ら問題はない。「またか」という落胆などは皆無である。ヒュー・ジャックマンは、狼的な存在であり続ける。それが、映画と映画の間を自由に往き来することなのだ。
 大河内傳次郎は、一人二役を多く演じた。一人二役は、映画において最も興奮度の高い場面を導く、大切な要素の一つである。ルイス・ブニュエルの二人一役になると、混乱に近いイメージとなってしまい、あまり得策とは思えないが…。
 複数の映画において、似たような人物を演じることは、俳優にとって、イメージの固定化という点から、あまり歓迎されていないようだが、この人が出るといつも同じような役、というのは、観客としては、大いに楽しめるものだ。残念ながら、それを徹底させた俳優は、非常に少ない。
 このヒュー・ジャックマンとて、一つの役を演じ続けることは、すでに不可能だ。
にもかかわらず、『X-MEN』の2作で同じ役、そして『ヴァン・ヘルシング』で狼男。これだけでもう、映画界の束縛を打ち破ってしまったに等しい快挙を成し遂げているのである。

■ブルース・リーの影
 ブルース・リーは、『燃えよドラゴン』を遺した世を去った1973年の時点において、映画における一つの世界的な標準となった。その標準とは、決して超えることのできぬ高みに達しており、それ以後、ブルース・リーを意識することなしに映画を作ることが、いかに困難となったかは、映画史がすでに証明している。
 スティーヴン・ソマーズもまた、ブルース・リーに取り憑かれた人物に他なるまい。
『ジャングル・ブック』で、ジェイソン・スコット・リーを起用していた時点で、それはもう明らかだろう。
 今回の『ヴァン・ヘルシング』では、ヒュー・ジャックマンを、上半身裸にし、刃物による切り傷までつけてしまう。これがやりたいんだよな、よくわかるよ。そんな気持ちにさせられ、強烈な共感が込み上げてくる。
 ドラキュラ、狼男、フランケンシュタイン、さらにはジキル博士とハイド氏まで出てくるこの『ヴァン・ヘルシング』は、怪獣映画で永遠に実現できそうにない、夢の顔合わせ『ゴジラ対ガメラ』を、怪物映画の世界で実現させたようなものだ。
 強者たちの集結。それは、『死亡遊戯』に通じる主題だ。世界の格闘者たちを一堂に会したい、という意欲を『死亡遊戯』で実現させたブルース・リーが、もし生きていたならば、『ヴァン・ヘルシング』のような、怪物結集映画を作っていたかもしれない。スティーヴン・ソマーズの根底に、ブルース・リーが生きていたら、の発想があるとしたら、彼の未来はより巨大な拡がりとなっていくにちがいない。

 

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