サイクリング物語

サイクリングロードを走る

  幸区の幸とは、何に由来するのだろうか。     いまから百十六年前の3月19日、明治天皇は  橘樹郡小向村に「観梅行幸」で訪れた。  その行幸を記念して、1889(明治22)年の  市制・町村制施行で、小向村など八ヵ村は合併して  御幸(みゆき)村を名乗った。   現在、野球場の裏手の木立の中には、  明治天皇臨幸御観梅跡碑が建っている。    戦後の区制施行で、かっての御幸村の大半が幸区に  移行したため、御幸の幸をとって区名にしたわけだ。   そもそも、小向の地に梅の木がうえられたのは、  江戸時代の寛文年間(1661ー73)という。  梅は多少の浸水があっても収穫でさる作物で、  多摩川の水害にくるしんできた小向村の農民たちは、  積極的に梅の栽培に取り組んだ。  もちろん果実は梅干しに加工して江戸へ出荷した、  町人の食用に供された。  これが村びとたちの収入源ともなった。  栽培面積は、小向村周辺だけで30ヘクタールに  及んだという。   ところで、行幸前年の1883(明治16)年早春  のこと、  ジャーナリストの成島柳北が「朝野新聞」に「小向観梅の記」  を載せた。  その一文がきっかけで、小向梅林は関東でも有数の梅の景勝地  として、喧伝されることになった。  名うての観梅好きだった明治天皇の耳に届いたというわけだ。      さしもの小向梅林も明治末期にいたり、多摩川大洪水で  梅林の三分二以上が失われ、やがて残りの梅も切り倒されて  しまった。 現在は、多摩川大橋の第2国道沿いに梅林が見られ、初春に  薫りよい梅の花が見られる。  その梅林の中に、県営でサイクリング車の貸し出しした立派な  建物が残っている。  あの楽しそうな笑顔があった。  県の財政建てなをしも必要と思うが。  工場や住宅街の進出で、いまは全く農村の面影をとどめない。  だが、そのかすかな名残が幸区東古市場の御幸公園のなかに  受け継がれている。   樹数は百本余り、二月から三月初旬にかけて白梅・紅梅が  咲きにおう。  園内の野球場裏に明治天皇臨幸御観梅跡碑もある。  多摩川河畔で御幸煉瓦製造所を1923(大正12)年まで  経営した増山周三郎が、1931(昭和6)年に建立した。  梅の香りが、いまもこの地の歴史を思い起こさせてくれる。   ここまで足を運んだら東芝科学館に立ち寄るとよい。  東隣の東芝小向工場のなかにある。  川崎で発明された電気製品の歴史や最新の電子・電気工学  などを楽しく学べる。  いずれも、JR川崎駅東口からバスで12分である。  (神奈川新聞)  

   明治天皇臨幸御観梅跡碑   梅園の梅 梅園の中の元県営サイクリング貸し出し場    サイクリング出発点 上流へ   古市場小学校 改築工事    古市場小 防災対策拠点  多摩川河川敷 トイレ 水道がある。    ガス橋を望む

  ガス橋通り----鎌倉道と呼ばれた古道   多摩川には、平間の渡しがあった。   JR南武線を平間駅で下車。  左手に行くとガス橋通りに出る、この通り、  多摩川に架かるガス橋から続くので、こう呼ばれ  ている。  駅から橋まで歩いて10分ほどだ。   橋の入り口右手に、地元の有志が取り付けた  メタルプレートの「橋史」があり、橋の歴史を伝えている。  この橋、1931(昭和6)年にガス人道橋として  架設された。  それ以前は、平間の渡しで渡った。  当初はガス管を渡すだけだったが、人も通すことで  建設許可が下りた。   堅固な橋脚の上に太いガス管が置かれ、その横に  幅1.5mほどの板を設置、人が歩けるようにした  貧弱な橋だったが、いつしか人々は、ガス橋と呼ぶ  ようになった。橋板には、穴が開いていた。  川の流れが見えて恐ろしかった。  戦後になり、自動車も通れるように、という地元の  要望から1960(昭和35)年に今の橋に改装された。  現在は、自動車の長い列ができている。  これで、社会の発展が具体的の見ることが出来る。  この下が「平間の渡し」だった。   実はガス橋通り、むかしは鎌倉道と呼ばれた古道だ。  しかも、道筋の二カ所に直角に曲がった場所があり、  それを平間の七曲がりと呼んでいた。  江戸幕府の軍事的理由か、付近にあった沼を避けたもの  か、定かではない。   この七曲がりの一つが平間駅の向かい側にある。  その一角に「銚子塚」が残っている。  小さな稲荷の祠もあり、花も添えてある。  この塚には赤穂浪士にまつわる伝承がある。  浪士から贈られた銚子を埋めて、祭ってあるという  ものだ。  たしかに、元禄のころ、下平間村の称名寺近くに  赤穂浪士の一人、富森助右衛門の隠れ家ができた。  ここに江戸討ち入りにやってきた大石内蔵助一行が  10日間ほどだが、素性を隠して滞在した。  この間に内蔵助は同志への訓令十ヵ条を作成して、  密かに浪士たちに与えたという。   いま称名寺には、このとき内蔵助らが世話に  ななった礼に寄贈したという遺品が十点余保存  されている。   ほかに、日上幸川が描いた「紙本着色四十七士像」  もあり、討ち入りのあった十二月十四日には一般公開  される。   七曲がりの先、多摩川には平間の渡しがあった。  内蔵助らもここを渡って江戸にはいったと思われる。  歴史のロマンを感じる。  (神奈川新聞) 

ガス橋付近の地図 銅板の「橋史」歴史が分かる。    海から11Kmの地点 新幹線、横須賀線の橋が見える。 丸子ポンプ場前が有吉堤と言うが、住民は違うと言う。   有吉堤 道であり八幡神社に通じる。   八幡神社 大きな神社だ。     石仏 板碑 集めたものだ。   小さい神社前まで有吉堤が続く

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