塚越の地名

日本地名研究所 発行川崎市

   塚越は区の中央部にあり、すぐ南隣りは横浜市の矢向に接しています。   平坦な地形で、JR南武線が南北に通り、北部の一丁目と二丁目は主に住宅地   で、南部の三丁目、四丁目は工場の多い地域ですが、現在はアパート団地に建   てかえられている。    この町は、江戸時代は塚越村と呼んでいました。   これが明治22年の市制・町村制施行により御幸村の大字になり、その後、大   正13年に川崎市の大字となったのち、昭和26年に一丁目から四丁目に分か   れ、47年に幸区の町名となり、現在にいたっています。        村名の起こりについては、「風土記稿」に、村内に古い塚があって、そのあた   りを「塚の越し」と言ったことによると記されています。   この塚は塚越2丁目138番地に現存し、塚の東側は古川町との境に近く、   江戸時代には多摩川の流路に近かったため、「塚の越しの渡し」 があったと   伝えられています。      現在のようにまわりに人家がなかった時代は、この塚は旅人の良い目印とな   ったことでしょう。   この塚からは土器や剣が出土さたといわれ、かっての古墳であるとされていま   す。        塚越村は、二ヶ領用水がここで五筋にわかれれる所でもありました。   「風土記稿」にも大師河原用水、戸手村用水、川崎領大用水などの名が記され   ており、ここから小倉や矢向の南部の水田地帯に水が送られていました。        二ヶ領用水は、江戸時代のおおくの村々が利用していました。   そのため、用水の維持や管理はとても難しく、用水を利用する村々は組合はつ   くって管理・運営にあたっていました。   塚越村は、上平間村や下平間村、市ノ坪村とともに「上平間堰四ヶ村組合」に   所属していましたが、それまでも旱魃の時には水争いが絶えなっかたようです。       「風土記稿」に 袋 という地名が小名として記載されています。   これは昔の大師堀と町田堀という用水にはさまれた土地で、今の一丁目、   下平間から塚越中学校の一帯だとおもわれます。    袋 の地名も現在は地もとの古老がきおくしているのみですが、こうした   地名も用水の多い地域ならではのものでしょう。   「袋」という地名は、川が蛇行している所によくついている地名で、東京の   池袋もかってはそういう場所でした。    隣の二丁目は以前の字 沼ノ上にあります。   ここは東明寺を中心とする一帯で、昔の塚越ではもっとも早くから開けた地域   だといわれています。   東明寺は昔から灸をおこなう寺として有名で、今でも各地から利用者が訪れま   す。   塚越三丁目と塚越四丁目は、JR南武線を境界に西と東に分かれている地域で   かっての字 前原と矢通りにあたります。   昔、矢口の渡しの合戦で、矢を射ったら塚を越えてこの付近まで届いたので   矢通りの地名がついたという伝承が残っています。    ただ、矢口の渡し、矢向、矢田など「矢 」のつく地名は川べりによく見ら   れ、湿地を意味する場合がおおい(松尾俊郎「日本の地名」ので、矢通りもそ   の類の地名と思われます。    

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