半世紀前の塚越より

水の豊かな川崎、心豊かな幸区

石井 章夫・佐々木善次 著 S.61.12.15

  塚越では、第二次世界戦争後でも庭先には蛍が飛んでいました。   大正時代は、果樹園では桃の花が咲き乱れていたそうです。夢のようです。   この町を歩きながら、ここにはどんな家か田圃かと想像することは楽しいこと   です。この道も、田圃の畦道だったのだろうか。   近くには、二ヶ領水が流れ大きい農家では野菜を洗っていました。懐かしい   農村風景がありました。   この二ヶ領水に沿って歩き塚越3丁目の歴史から日本の歴史を考えました。   この地名になった「塚越塚」を見に行きましょう。   そこは、古墳であったと言う説もあります。    多摩川がつくりだした氾濫原に、たくさんの農民たちが住むようになったの   は 西暦1716年〜1736年(享保年間)のころでした。    稲毛・川崎二ヶ領水が、開さくされる前の耕地は、889町歩。   開さく後は、2007町歩。    しかし、そのうちには、農民たちはたえざる多摩川洪水とのたたかいがあり   ました。   洪水はようしゃなく農民の血と汗の結晶である作物を押し流してしまいました。    江戸時代の水損の村のようすを書いた文書に「村明細書帳」があります。   また、「新編武蔵風土紀稿」のなかに、水利に便だが川ふちの村なので水災が   しばしばおこると書かれている。    バングラデシュでは洪水で出来た土地に苗を植えた人のものになるが、日本   の多摩川では、その中心が東京府と神奈川県の境界でしたのです。    ところが長い間の多摩川流露の変化がしばしば「飛び地」をつくり神奈川県   の土地が多摩川をへだてて東京府にあり、また、逆の場合もありました。   洪水の第一の原因は飛び地にあったので、    明治44年1月 添田知義(市場村)が129名を代表して、   「東京府神奈川県町村区域変更ニ関スル請願書」をさしだしたのです。    帝国議会で審議され一時は反対されたこともありましたが、   明治45年4月1日を期して、ついに府県境界変更の法律が施行されることと  なったのです。   これで多摩川の堤防をよくする仕事が進むようになりました。        多摩川の流れのようす。

        石井章夫は、B4大の紙に画かれている絵図を前にして、この記述をし始め   た。絵図は色鉛筆で識別した。今から50年あまり前の塚越の略図が画かれて   いる。    紙面左上から右斜め下に国鉄南武線(昔は南武鉄道といい私鉄経営だった)   昭和2年(西暦1927)に開通    大正15年(西暦1926)郡役所廃止、松島遊郭疑獄事件、12月25日    大正天皇(48)逝去、 昭和1年となる。昭和天皇践詐         昭和2年 明治節設定、田中義一政友会内閣成る。濱口雄幸 立憲民政党    結成。     昭和3年 普通選挙による最初の衆議員総選挙(無産党8名)    治安維持法改正(死刑追加)、民政党床次竹二郎脱党新党倶楽部を組織    陪審法実施、即位の大礼式を行う。        昭和4年(西暦1929)拓務省新設、新党倶楽部、政友会に合同、    犬養毅政友会総裁、朝鮮光州学生事件、     昭和5年 第二回普通選挙(無産党5名)。台湾蕃社の反乱事件。    濱口雄幸狙撃事件      中央部は現在の塚越踏切、茶色は当時の主要道路、青色は川や池、うすみど   りの囲いは住宅地で、橙色は桃畑、緑色は水田といった色分けである。   このような絵図をどうして作ったのかというと、私は予々現在の塚越4町及び   その周辺は、すっかり開けてしまって、往年のたたずまいをしっている人は、   塚越土着の人で 60ー65才以上の人でなければ分かるまいと思う。    塚越がこのように密集した地域になったのは勿論戦後のことである。   そうした昔の面影を記録によって残したいと考えていたからである。    図には52年前、昭和6年(西暦1931)頃と注記されてある。   昭和6年頃と言うと、私が御幸尋常高等小学校の高等科2年を卒業した年であ   る。    昭和6年 台湾の蕃社再び反乱、大日本生産党結成、10月事件軍部独裁企画    民政党分裂、安達謙蔵、中野正剛等脱党     その当時のことを頭の中に浮かべ、年月を経ているので多少記憶の薄れている   こともあるが、この絵図をみていると、子供のころが走馬燈のように思いださ   れてくる。   以下思い出のままに記述してみたい。   戦後、塚越に来た人の中には20年を経過すれば土地っ子と言われるがそれよ   りも30余年以前の状態であることに着目され、参考とされれば幸甚である。       塚越の各家    この絵図には当時の塚越の住家の位置がしめされている。   住家はいわゆる農家造りで百姓家である。   当時の住家は絵図面上では47軒になっており、その外に山谷部落というのが   15軒位あったと思われる。    次の各家は土着で、本家分家と来住者も一部あった。        鳥養家   9家       沼田家   7家    長谷川家  6家       軽部家   5家    石井家   3家       増田家   3家    渡辺家   2家   そのほか 吉岡、名古屋、松尾、井上、鴻巣、大崎、森井、内田、   氏名不詳の各家である。   家名と各家    土着の各家と来住者各家には、それぞれ家名があった。   (  )内は当時の戸主名である。敬称略 鳥養家    下の清さん(清吉)現住      あたらし家(福太郎)現住    下の為さん(為蔵)現住      新家   (勇蔵) 現住    下の家  (新太郎)転出     田町   (春吉) 転出    横丁   (彦七)転出     石井家      高札場  (金太)転出      いもや  (伝吉) 現住    甘酒屋  (新太郎)転出     安さん  (治平) 現住    中郷   (常太郎)現住     梅さん  (梅吉) 移転    大門   (友吉)現住      木綿打屋 (弥平) 現住    新家   (房吉)現住     増田家   沼田家               かじや  (半次郎)転出    太田町  (重作)現住      作蔵さん (亀蔵) 現住    けーど  (九蔵)現住      大工   (熊吉) 現住    もうさん (栄蔵)移転     渡辺家    伊兵衛さん(義造)転出      塚の越  (宇三郎)転出    幸さん  (源藏)現住      忠さん  (忠藏) 転出    活動   (虎之助)転出    その他    精米所  (三之輔)現住     お寺   (吉岡予綱) 現住   長谷川家              植木屋 (名古屋虎吉) 現住    権兵衛様 (権平)現住      豆腐屋 (橋本慶蔵)  現住    屋根屋  (勘五郎)転出     蔵の家 (森井由太郎) 移転    ほくちや (菊蔵)現住      荒神様  (松尾 清) 移転    たたみや (弥五郎)現住     綿屋   (井上 某) 転出    おんだし (徳太郎)現住     産婆  (大崎角十郎) 転出    小田町  (力蔵)現住      茨城  (鴻巣、内田) 転出   軽部家                   分家   (政之丞)転出     山谷部落(桑原外14軒)転出    本家かさ (重蔵) 転出      家名のいわれ     家名はその家が昔商売をしていた屋号がそのまま残り、特に名前で呼ばれ    いる場合、その人が著名だったちか、家が場所そのものであったり、近くで    あったりしていたようである。     同名各家は何れも親戚の関係にあり、数代前に本家から分家したものであ    り、また当代では兄が本家、弟が分家して新家となった等である。     家名の名称を見ると、成る程とおもわれるところがある。   鳥養家     塚越は下平間寄りを上といい、矢向寄りを下といった。    上下の境は現在の塚越銀座通りの一線であった。    下と言えば鳥養新太郎家饅頭屋の別称であり、そのほか下の誰々さんと呼ば    れていた。     現在の尼崎製缶会社と東通工の約半分位の土地は、その昔、鳥養総本家    (鳥養仁一)屋敷跡であった。    鳥養総本家は、徳川時代に名主の家柄で、後代塚越村の村長をつとめたとい    う。広大な屋敷をもっていたが、私が小学校に上がる前に、失火で焼失し再    建されずにしまった。                   長谷川家     権兵衛様は代々の呼名らしく、当時の権平さんは、色白細面で土地の旧家    の当主で、百姓らしくない温和な人であった。    子供の頃遊びに行くと、柿や桃畑を家の周囲に持っていたので、よく桃をも    らって食べた。    家の土間に入ると、広くて夏でも家の中がひんやりしていたのを覚えている。   沼田家     けーどの沼田家は、おおだまちの沼田家の屋敷から道路に出た反対側にあ    り、昔の人は(街道)のことを(けーどう)といったようであり、その街道    口にあるところから、その呼名になったものであろう。     活動の沼田家は、当時の当主虎之助氏が川崎砂子で川崎館と言う映画館を    経営していた。     子供の頃によく父に連れられてみに行き、目玉の松ちゃんこと尾上松之助    チャンバラ映画をみながら、三角の紙袋にはいっている南京豆を食べたこと    思い出す。   軽部家     分家軽部家の当時の当主は正之丞氏で、塚越の区長をつとめられていた。    これも大きな屋敷構えで、周囲にさんご樹の垣根をめぐらし、その外周に桃    畑をもっていた。     昭和58年夏頃、軽部豆腐店の軽部たかさんが亡くなった、政之丞氏の娘    だった。   石井家        いもやの石井家は本家である。安さんの石井家はいもやからの分家で別称    はしば。梅さんの石井家は、いもや石井伝吉さんの弟梅吉さんが分家した。     今は亡く息子の時夫さんが商店街旭屋米店主である。   増田家     かじやさんについては不詳     作蔵さんの増田家は屋根屋ともいわれ家業としていた。その分家が大工の    増田家である。   渡辺家     塚の越渡辺家は酒、雑貨商で当時同店の道路を隔てた反対側に塚の越とい    う小丘があったところから、屋号になったもの。     父が仕事の疲れを癒す為に10銭持たされて、1合の酒を買いに行ったも    のである。 吉岡家     お寺、東明寺である。寺続相伝(塚越の灸)で有名、三と八の日には、灸    療に近郷近在から来る人が多く、胃の灸といわれている。    東明寺については別に記したい。   名古屋家     植木屋、新開屋は屋敷内に多くの植木が栽培され当主だった虎吉さんが、    頼まれれば植木の手入れにでた。    また、大正12年9月1日の関東大震災に、鳥養一家が開いてた新開屋とい    う店が潰れたので名古屋家で屋号を継いで雑貨等の営業を兼業した。    大正12年(西暦1923)群制廃止、陪審法公布、武藤山治等実業同志会    結成、関東大震災で戒厳令発動、国民精神作興に関する詔書、       橋本家     塚越の豆腐屋は近在でただ一軒の豆腐屋で、主人と若い衆が大型の岡持桶    を天秤で担いで、ラッパを吹きながら、小倉の方へ売りに行く姿は今でも目    に焼き付いている。呼び売り声(トーフイー)   森井家     蔵の家森井家は関東大震災で新開屋鳥居家の土蔵が潰れずに残ったのを仮    住まいとして、被災に会った森井一家が住み込んだ。    当主由太郎さんは子供が多く、私達はよく遊んだものだった。    小柄でいつも無精ひげを生やしていたが、こまめな人であって、通称を蔵由    さんと呼ばれていた。   松尾家     荒神様松尾家、昔鳥養家本家の土地内から出土したと伝えられる、三宝大    荒神像を祀った、荒神森の堂宇を守っている家である。    荒神様については、別に記したい。     井上家     塚の越の北側に井上製綿工場があった。    ふとんの綿の打ち直しの綿打ち機械が回っていたのをよく見に行ったものだ    った。   大崎家     産婆さんで、当主角十郎さんは役人で、奥さんが助産婦をしていた。塚越    地区内の成人中には大崎産婆さんに、とり上げてもらったものも数多くいる    ようだ。   鴻巣家、内田家     茨城県の出身のためであったにだろう。内田家の嫁さんのお花さんが、私     の家の野良仕事に殆ど毎日手伝いにきていあものであった。   東明寺のこと     寺伝については、吉岡了秀住職の話しと、沼田三之輔著(80年の歩み)    によれば戦国時代の末期頃、豊臣秀吉が小田原城を征伐していた頃に、この    塚越の里に浄円という坊さんが、庵を構えたと言う。    天正18年(西暦1590)小田原征伐し秀吉全国統一、徳川家康関東に    移封、江戸城に入る。     徳川家が幕府を江戸に開いた後、現中原区小杉あたりに鷹狩りに来て西明    寺という寺に休息した際に侍った、浄円坊の後の庵主貞運坊が、家康から寺    号をあたえられ、後に江戸三縁山増上寺の末寺としたという。     その後寺は摂取山浄土院東明寺として現在に至った。    浄土宗の寺院である。     秀吉が小田原征伐の時代は天正17年(西暦1589)とすれば、現東明    寺の元の浄円坊庵創々は、今を去ること390年以前となるわけである。     その時代の塚越村の戸数は 37軒 しかなかったという。    人工的には 一軒5人 位として 200人 位であったようだが、前述の    通り増上寺の末寺としての待遇をうけていた関係で、塚越村は増上寺領とし    て、村の年貢も安くて、また、川崎宿等の人足賦役を免れたというから、    相当裕福な村であったようである。     小泉次大夫は、二ヶ領用水開削のため、測量をはじめる。    慶長2年(西暦1597)  慶長5年 関ヶ原の戦い    慶長16年(西暦1611) 二ヶ領用水の工事が終わる。    浅野長政(65)加藤清正(50)死去    島津家久 琉球を検地    慶長17年 東北大名より誓紙を徴す。岡本大八郎処刑(禁教に発端)    慶長18年 公家諸法度奏上、    慶長19年 豊臣秀頼 京都方広大仏殿の鐘を鋳造。大阪夏の陣    元和1年(西暦1615)大阪夏の陣 秀頼(23)淀君(49)自殺、    豊臣氏滅亡       その後、人口が増え、新編武蔵風土記稿(西暦1830)に武蔵野国川崎領    塚越村の地名が徳川時代の市域としてかかれている。       弘化二年春乙巳三月(西暦1845)春草堂高木保継誌の地図にかかれてい    る。

   弘化3年 海防の勅諭幕府に下る。幕府外船の来航を奏上。    明治14年(西暦1881)参謀本部陸軍部測量局の測量の地図にかかれて    いる。

   明治14年 開拓使官有物払い下げ問題、国会開設の証、    自由党成立(総理板垣退助)    昭和6年(西暦1931)塚越全(略図)には家屋の名前がかかれている。

   平成10年(西暦1998)塚越3丁目住宅案内図

拡大住宅案内図

市街地図

神社・お寺の図

   昭和(戦前)まで村の形態がやや続き、工場が多く建てられた。     東明寺の存続については、沼田本家が代々尽力して現在にいたっている。    同家は現在でも寺の檀家総代として続いている。     同寺の本尊は阿弥陀仏座像で鎌倉時代の仏師の作と伝えられている。    その他、虚空蔵菩薩、小野道風の書掛け軸、板碑等の寺宝がある。     酒の主な原料はよい米とよい水です。この地方は稲毛米といって将軍さま    の食べるよい米を作りましたから、各地に酒造りの家がありました。    天保(西暦1830)の頃、稲毛領では冥加金560文を納めた登戸村の    安左衛門、溝の口村の安左衛門と清平衛、長尾村の直次が大きな酒造り屋で    した。 天保2年(西暦1831)全国総石高調査    川崎領では、塚越村の新開屋六右衛門(鳥養家)がいました。    かれは酒造りの様子を一コマずつスケッチした板絵を東明寺にかかげました。    川崎市の産業を知るうえにたいせつなものです。     酒造りは米の不作の年は、半分あるいいは三分の一と量を減らされました。 現東明寺の建物は、昭和51年4月にコンクリート造りに新築された。    落慶式には稚児行列や大法要が営まれた。    一般寺院としては立派なものである。    この新築には沼田本家及び沼田三之輔の寄進により出来上がった。   御獄神社のこと         明治時代以前は神仏混合の時代なので、寺の守護に神社があり、または、    その反対というわけであった。塚越の氏神様は東明寺の守護する神社であっ    たが社の起源はよくわからない。     塚越北部の小丘上に鎮座するこの社は、元は上社と下社の二社があり、    丘の上の社の御祭神は、天国常立尊、天伊冊那岐尊、天爾々岐尊であるとい    う。     私達の子供の頃は、日本武尊が祀られていると思っていた。    下社は神明神社ということで、今はないが現在の駐車場のところで、杉の木    立と竹やぶに囲まれて祀られててあった。     神社の名称から考えると、神明神社の御祭神は古伝によるところの御獄大    明神、春日大明神のうちの御獄大明神がまつられたものとおもわれる。    上社に後に合祀されたものである。    昔から社名は御獄神社と総称されたものであると思われる。     今でこそ八角形で石垣にかこまれた小丘の上に座す社殿は、戦争中に焼失    氏子総代等の尽力によって再建され、後に改築が加えられ、さらに玉垣をめ    ぐらし新しい鳥居、狛犬が神社前にがんばっているが、これは氏子総代沼田    宗次および同総代沼田三之輔氏の奉献になるものである。     50年前の神社のたたずまいは、現在の丘のまわりには2m余りの丈の篠    竹が密生し、社殿の裏手には、松や椎、欅の大木がうっそうとして生い茂る    境内にも大人の二抱えもある松の大木や椎の木、一抱えの松や杉が幾本も生    えていた。    参道は石だたみが長く続いていて、石段は現在とかわらないが、社殿の左手    に女坂石段があって、神明に通じ、丘の前面は1m未満の篠竹が密生してい    た。    石段の両脇の銀杏の樹は現在樹齢70年で沼田三之輔の植樹という。     このたたずまいは、まさに村の鎮守様という風景であって、裏手の森中で    ふくろうがよく鳴いていた。     私事であるが、この神社の拝殿で、父の希望もあり、昭和14年3月2日    私と家内 光とが神前結婚式をあげたが、これが始めであって、後はなかっ    たということです。     子供の頃は、神社の境内は格好の遊び場で、篠竹の笹やぶに隠れて(ドン    うった)という遊びや、チャンバラごこ、がっちん玉、めんこ、鬼ごっこ、    かくれんぼ等をした、なつかしい場所である。   鳥の越稲荷のこと        鳥の越稲荷は、前述の鳥養総本家の家内神であって伏見稲荷を勧請したも    である。    当時は南武線路向こうの、塚越耕地の一角の松杉林の中に鎮座していた。    赤色の祠が木立からみえかくれしていた。    その後、秋田鋳物工場(古河鋳造の前身)の構内になって一時区画されたが、    戦後塚越2丁目に転座で商店街で一時奉斉したが、その後すたれた。    社殿も傷んでしまい見る影もなっかたが、今は修復されて、塚越四丁目の    市営住宅アパートに囲まれてある。   荒神社のこと         塚越下区に荒神の森というのがあって、塚越本通りから小倉寄りに所在、    三宝大荒神像を祀った堂宇、わら葺き屋根一棟が建っていた。    荒神様は古伝にいう天大へっつい(かまど)の神といわれ、火伏せの神様で                                         かまど煮炊きの守護をする神として庶民の信仰厚い神様だという。     昔は村内の各戸のかまどのあるところには、荒神社のお札がはられてあっ    たが、今はおそらく土着の各家でも見られないのではないか。    私の家の台所には父が作ったお札箱にいれられたお札がのこっている。     この三宝大荒神像は古い昔に鳥養総本家の土地から出土したものといわれ    る。    荒神社の由来については、同社の板碑に記録されているが、同板碑には、 武州橘樹郡橘樹郡塚越村町田原、鳥養安之丞内宮、勘請始永禄八乙巳年より    当年まで239年也とあり堂宇を新築または改築した模様で寛政五発巳年四    月三日、棟上二月十六日という日付が記されてある。     寛政五年で239日ということだから、現在まででは430年にもなるわ    けである。    寛政5年(西暦1793)尊号事件につき中山愛親等関東に下校、閉門     林子平(56)、高山彦九郎(47)自殺          東通工が出来て同社はその構内に入ったので東通工がお祭りをしていたが、    構内に三件の火災が発生し、おそれ多いと言うことで構外の現在地に移転し    現在にいたった。     52年11月から旧講中の人が集まり毎年荒神祭を復活したが、敬神行事    として永続させたい。   塚の越のこと     川崎小史という本に塚の越の写真と、その記録が載っていた。    その小史は今手元に見つからない。    塚の越は当時の長谷川本家の桃畑の一角に小丘があり、丘上は木立になって    いて、高さ5−6m もあったように思う。    現塚越2丁目の住宅アパートの建物に囲まれてしっまた。    昔は桃の木の上方に貫き出ていて大通りから直接見られた。     言い伝えによれば、北条時代はこの付近は、新田、北条氏の戦場となった    ようである。    元寇(西暦1274−1281)     元寇の軍事費莫大、ご家人の奉公に対するご恩が不給与     上野の新田義貞も挙兵して鎌倉に攻め入り幕府の執権北条高時は自殺し     幕府滅亡(1333)    新田勢の強弓者が、今の下平間あたりから、矢を敵に向け射たところ小丘上    を飛び越したところから矢を射た方向を矢向、小丘(塚)を塚ノ越といい、    地名になったという。    この塚は盛り土で塚内から、埋蔵物として槍一筋、刀が二振り出土したが、    御獄神社に納められたという。     これは私見だが前述の鳥の越稲荷で(越)が出てきたが、稲荷社の森の上    を何鳥か知らないが飛び越し去ったことから、言われているのを見ると、    塚越はもともと(腰)(越)と言われたというが、北加瀬の先に、越路とい    う地名があるが、何かのつながりがあるか。    強いて言えば、越路は塚越へ通ずる道の起点を現しているのか。    同地から塚越へ来るには、夢見ヶ崎公園(昔 加瀬山)の北側か、南側を廻    って小倉耕地を経て、塚越に至ることができたからである。    定説でない。     塚ノ越は塚越の表徴であったが、年月ともにその面影がうしなわれ、人家    が密集した中にとりこまれてしっまた。    昔より形が小さくなっているようだ。    場所、塚越二丁目183番地                                           

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