川崎駅西口

川崎駅 西口地区

先端技術・情報・文化に出会える町

   この地区は、三つのエリアに分かれて開発がすすめられています。   すでに開発の終了したテクノピア地区と、現在開発中の西口地区、   そして東芝跡地です。   川崎駅周辺は、川崎全体の中核機能を担う都心の形成を目指し、   「都市再開発地区」として再開発されることになりました。  

  テクノピア地区

   多摩川沿いのこの地区は、新しいタイプの都市産業の中枢地区に位置   付けられています。   シンボルタワーであるソリッドスクエアを中心に、企業のオフィスビル   や、住宅ビル、産業振興会館があります。   また、西口からこの地区へとのびる道路はサクラ並木がつづき、ちょと   したサクラの名所になっています。 桜吹雪を浴びながら              家から歩いて          10年間のパスポートを取りに行く                       幸区は良い町だ   ソリッドスクエア    ガラス張りの二つのタワーで、なかには県民センターや情報コーナー、   パスポートセンターが入っています。   地下には、ホール、スポーツジム、飲食店もあります。    会社 70社 6000人   産業振興会館 産業の技術革新や、高度情報化に必要な経済動向全般の把握、及び、   人材・新技術などについての情報交流、開発のステーション機能を果た   しています。   ホールや企画展示室、会議室、研修室も完備しており、一般への貸し出   しも行っています。      約80人   興和川崎西口ビル    約15社 4500人   2003年(H5) ある会社は品川開発地区に移転するそうだ。             これが社会の発展か。   東芝半導体技術システムセンター    どんな人が開発に取り組んでいるのだろう。   住宅ビル    静かな落ち着いた環境だ。人影もない   川崎駅には、ホームレスの人も多い、トイレと水道が最低必要だ。    アメリカ ニューヨークの摩天楼のビルの下に、ホームレスが   住む。これを解決する努力が必要だろう。   そのためのプレハブ住宅の建設の反対がある。気の毒だ。   システム研究者がゆきずまり職を捨てたとき、音楽、俳句、短歌、   小説等が書ける芸術的なプレハブ住宅に入れる保証があれば、   システム研究は進む。    川崎市では、その対策がすでにあった。   1918年 シベリア出兵、富山県魚津の米騒動、大会社のストライキ   で町当局や大会社は、米の安売りを実施したので暴動に至らなっかた。    財界や県当局は、この事態を重く見て、社会施設の設置に乗り出し、   川崎には、1921年5月、川崎社会館を堀ノ内に開設し、公設市場、   食堂、浴場、職業紹介の事業を行うようになった。   川崎における社会事業の始まりである。   横浜市でも、公設市場などの設置を行っている。    1920年に入ると、景気が落ち込み、第一次世界大戦後のいわゆる   戦後恐慌の過程で労働争議がひん発した。    これからは、すべての人が生きられる社会にしよう。    誰でもが   野路者の                             寒さを思い               今夜寝る   川崎西口地区    この地区は駅前という立地の特性を活かし、地区の玄関口にふさわしい、   業務施設・商業施設・文化施設が一体化した、オフィスビルが建設中です。   またその後方には住宅が整備され、公園・駐車場もつくられます。

  ミューザ川崎 (川崎シンフォニーホール)    地上8階、地下2階で2000席を有する音楽ホールが完成します。   大ホールはクラシックコンサートやポピュラーコンサートはもちろんのこ   と、講演会・式典・大会などのも利用できるようになっています。   また、客席も中規模利用(1000席、1500席)にも対応できるよう   に、配置等の工夫がなされています。   市民交流や、練習室、研修室、会議室も設けられ、市民が気軽に利用でき   る場にもなっています。 2003年12月19日 OPEN    ホール棟へは、川崎駅の改札口からデッキで直接結ばれるようになりま   した。        業務棟    情報・文化・交流の拠点として建築されます。   地上27階、地下2階で、店舗や事務所が入り、駐車場もつくられます。   東芝跡地

   この土地は、地域の利便性と川崎周辺の活性化につながることをねらっ   て、開発が進められます。    跡地を3つのエリアに分け、中央を、商業・エンターメントエリア、   ソリッドスクエアとして開発する予定です。    住宅エリアは、2004年の着工、商業・エンターテイメントエリア   は2006年の施設開業予定です。   2003年(H5)この地区で、3LD 2900万円を募集したところ   即日完売の掲示 たれ幕には驚いた。それほど良い環境だ。 住宅マンションについて考えて見よう。   熱海駅で笹ヶ良団地行きのバスに乗る。    途中、老人がスーパーの大きなビニール袋を持ち乗る。大変だなと思う。   しかし、団地内の保育所は大きく立派だ、斜面の芝生も廣い。   子供の大きな歓声が山間に響く、これで成長するのだろう。   この一郭にあるJRの職員マンションと研修所は閉鎖されている。    また、七尾団地行きに乗ると、建物は白く南側に面している。眼下には、   広々とした海がみえる。しかし、人影は無い。 中国 上海では、マンションを購入し、それを貸したり、株の購入が盛ん   との報道があった。   この現象は、日本のバブル期に、会社員が住宅公団のマンションを複数購入   し、貸したりした現象とにている。   暴落が無いのだろうか?       住宅環境は変わる。駅前団地がスラム街になる恐れがある。   川崎の団地行きのバスに乗り、下車するとこのような風景が見   られる。駅近くのマンションは便利だ。幸区に良い環境を創ろう。   2000年(H12)3月の神奈川新聞の記事を読むと当時の風景が思い   だされる。   工都発祥の地    近代の川崎は、ひたすら工業都市としての発展を追い続けてきた。   その工都川崎発祥の地は、多摩川下流沿岸だった。    まず、JR川崎駅を西口に降りる。   眼前には東芝川崎事業所の敷地が広がる。かってはコンクリート塀で囲われ   ていたのだが、いまは鉄索にかわった。   だから内部の工場群や庭が見通せる。   新しく整備された街路を、多摩川方面に進む。   鉄索の合間からは新荘 吉生、藤岡 市助、山口 喜三郎と三人の銅像も   順に見える。   いずれも東芝発展の節目を築き、わが国電気機器製造工業発展に貢献した   人たちだ。    東芝の前身、東京電気会社がこの地に進出し、最初にソケット工場と 変圧器工場での操業を開始したのは、1909年(明治42)初頭のこと。   マツダランプを造り出し、やがて四年後には、本社工場も移転してきた。    松下電器でも、始めは二股ソケットや自伝車の乾電池ライトを造ってい   たとのことである。今、何が必要なのか考えるのも楽しい。    道路をへだてて、巨大なツインビルがそそり立つ。   ソリッドスクエアと称する総合ビルで、五年ほど前に出現した。   ここは明治製菓の工場跡地だった。   さらにその先には、川崎市産業振興会館と興和川崎西口ビルが並び、   背後には公団堀川町ハイツ、リクルート川崎テクノピアビル、   川崎東芝ビルが林立する。   この辺り一帯、かって明治精糖の工場や倉庫群が連なっていたところだ。    この明治精糖、1907年(明治40)にここ多摩川河畔に進出した   横浜精糖を吸収合併した。   実は、横浜精糖は川崎への近代工場進出の第一号といわれる。   横浜から回漕する原料租糖を、陸揚げするのに至便な当地に新工場を建て   た。    かって、明治精糖構内から多摩川岸辺にかけて、ジャングルジムを思わ   せる荷揚げ施設があった。   テレファーと呼ばれ、震災後に赤煉瓦で補強された堤防に足場を構えた。   いま、その古い赤煉瓦の一部が、親水広場に整備された岸辺に残されて   いる。    ここ十数年来、工都発祥の地は大変貌を遂げてしまった。   先の明治精糖・明治製菓の工場跡地は、かわさきテクノピアという新街区   に生まれ変わった。    川崎駅周辺の都市再開発事業は、さらにその範囲を広げて進行中だ。   東芝前郵便局(現在の位置はどこか)の交差点を左に曲がり、しばらく行く   と鳥居が見えてくる。   幸区幸町一丁目にある女身本(にょたい)神社だ。   茅(ち)の輪くぐりの神事が伝わっており、子宝にめぐまれるという。    去る八月十九、二十日には、御輿、渡御や神楽の奉納があった。   もともと地元では「おんめ様」と呼ばれ、旧南河原村の鎮守だった。    水の守護神である女身本大神が祭られていて、近くの多摩川の氾濫を鎮め   るために命をささげた女性の悲話が伝わっている。    創建の年代は不詳だが、由緒書きでは永禄年間(1558〜69)から   女身本権現と称していたという。 さらに、西に歩き、二つ目の道路を右に行った突き当たりが円真寺の境内だ。   山門のわきには、新しい日蓮の立像が立ち、左手には市教育委員会の解説板が   ある。   山門左手の鐘楼には、天明六(1786)年の銘文が刻まれている。    「新編武蔵風土記稿」では、日蓮宗で安房国(千葉県)の末寺とあり、   蓮忠山円経院と号した。   誕生寺といえば、日蓮ゆかりの寺院だ。    開山の年代は不詳だが、境内には後北条氏家人だった斉藤大学助久義の墓   がある。   久義は、1590(天正18)年4月19日、小田原城にて北条氏直に従って   討ち死にした。   そのため当寺で追善供養したと、過去帳に載っているそうだ。    江戸の南にあった河原から南河原村といわれていた。   川崎西口再開発地区も南河原村の一部だった。歴史ある神社、仏閣と関連を   もちながら文化の薫る幸区の町にして欲しい。    次ぎは、開発前の川崎駅近くの南武線沿いにあった市営、県営、公団   アパートなどがの写真です。   現在は、公団の高層マンションなどが建っています。   比較してください。

                    

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