Vol.1〜Vol.25 特別編&年度別ベストテン
Vol.26〜Vol.59
→映画日誌一覧   →ご要望等はこちらまで。
 05/第五篇 スネークアイズ 
■音だけのボクシング
 またしても……、ボクシングなのである。いくら格闘技のホームページだからといって、これだけボクシングが続くのでは、さすがにうんざり、という感じだろう。同時に、映画とボクシングの密接な関係を、こうしたところからも理解できるはずである。

 出だしは悪くない。試合が開始されても、カメラはリング上へ向けられることはなく、リングサイドの出来事だけを追い続ける。ボクシングのファイトは、打突音だけが聞こえてくる、という寸法だ。映画はボクシングと100年にもわたる付き合いをしてきたのだから、これくらいの工夫があってしかるべきだろう。
 ところが、しばらくの後、ニコラス・ケイジがビデオテープを再生し、パンチとダウンのトリックを調べるシーンでは、試合がしっかりと、しかもスローモーションまで使って映し出されてしまう。試合を見せず、リングサイドだけをとらえるという方法は意欲的な試みであるかに思えていたが、実は小手先のテクニックを見せびらかしただけに過ぎなかったのだ。

■映画と眠り
 いろいろな人物が複雑に錯綜しているかに見える設定だが、その真相自体があまりにお粗末で、ついつい眠りに誘われてしまう。映画と眠り。これは、実は映画とボクシングよりも重要な関係、というか、映画と映画を見る者との避けては通れぬ関係なのである。

 お金を払って映画館に入る。そこで上映される映像を見のがしては損、と通常は考えられるだろう。しかし、映画を見ながら、ではなく映画を見ずに眠ることは、この上ない快感なのである。これを否定してしまっては、映画を見る大きな喜びの一つが失われるといって過言ではない。
仕事をさぼって寝に来ているおじさんや、泥酔して映画どころではないホームレスたちは、映画を真剣に見ている人間以上に楽しい時間を過ごしているのかも知れない。

 こんなつまらない映画は寝てしまえ、とばかりに自ら睡眠に入れるときなど、映画に対する高らかな勝利感を味わうことができる。あまりにつまらな過ぎると逆に眠れなくなるから、不思議なものだ。
退屈さとは別の、これまで経験したことのない、映画だけに流れる独特の時間が、快い眠りへと我々をいざなう事例もある。ヴィム・ヴェンダースの『さすらい』では、まんまとその罠にかかってしまった。

 この映画を二度目に見たときのことだ。大型トラックに映写機などを積み込んでドイツの片田舎を移動する映写技師と、妻と別れて家出した(らしい)医者とが出会い、医者は映写技師のトラックに乗せてもらいながら、行動を共にするようになる。二人は、知り合いのガソリンスタンドでサイドカーを見つけ、トラックからこれに乗り換え、ちょっとしたバカンスに出かける。このあたりから、私は深い深い眠りに落ちていった。
 ま、眠るだけならまだ納得もできよう。問題は、目が覚めたときに展開していたシーンをラストシーンだと思い込み、そのまま映画館(昨年閉館となった大井武蔵野館である。このころはまだ外国映画を上映していて、外国映画の上映館は「大井ロマン」、日本映画は「大井武蔵野館」と、おおまかに区別されていた)を出てしまったことである。3時間に近い長編だったはずなのに、ずいぶん早く終わったなあ、くらいの気持ちだったが、実は映画の後半を見ていなかったのだ。

 この映画についての談義を知人と交わしたとき、ようやく事の次第に気がついた。映画の半分を見ていないのに、まるで映画の終わりまで見たかのような気分にさせられてしまうとは、これは作り手の見事な勝利に他ならず、ヴェンダースに対して拍手を送りたい気分でさえあった。これほどまでの完膚なき敗北は、後にも先にも『さすらい』だけである。

 『スネーク◆アイズ』は、つまらないから寝てしまえ、くらいのレベルであり、これ以上言及する必要はない。

真に恐るべきは、映画の側から観客を眠りにつかせてしまう、という戦略的な意図を持って作られた映画である。果たしてそれに成功した映画作家がいるのかどうかはまだ定かではない。観客を眠らせておいて、その隙に殺人を犯す、犯罪のトリックを明かす、といった手口を使うような映画が制作されるなら、観客は映画に対して戦闘的な態度で臨むことを余儀なくされることになるだろう。

     
  スネーク・アイズ / 1998年 アメリカ
製作:ブライアン・デ・パルマ
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:デビッド・コープ
音楽:坂本龍一
出演者:ニコラス・ケイジ 、ゲイリー・シニーズ 、ジョン・ハード 、カーラ・グギーノ 、スタン・ショウ
 

 

←前へ
 
 06/第六篇 MARCO 母をたずねて三千里 

■「草原のマルコ」に導かれて
 頭の中では「草原のマルコ」が鳴り響き続けていた。この曲が否が応にも映画への期待をかき立てる。映画館へ向かう途中から胸が踊って仕方がないことはたびたびあるが、このときの状態は、ジャン・ルノワールの『牝犬』を見に行く途中に匹敵するものであった。

 『スネーク◆アイズ』があまりに不入りだったためらしい。新宿松竹で上映される予定だった『MARCO 母をたずねて三千里』は、新宿ピカデリー1での上映に急遽変更された。松竹セントラル1が閉館となった今では、松竹系映画館では都内最大を誇るこの新宿ピカデリー1に流れていた曲は、「草原のマルコ」ではない。外国人歌手の歌う英語の歌が繰り返し流されていた。

 松竹系では、休憩時間に上映映画の主題歌を流すことがよくある。外国人歌手の歌う英語の歌が、この映画の主題歌であることは、容易に察しがついたのだが、問題は「草原のマルコ」を映画の中でどう扱うか、であった。「草原のマルコ」が使われただけで、もう涙、涙、となることははっきりしているだけに、この曲を使わない手はなかろう。
 今さら新しいことは、してほしくないのだ。テレビのエピソードをぶつぶつにつないだ『アルプスの少女ハイジ』でさえ、劇場用に作られた他の高畑勲作品を上回る感動をおぼえていただけに、せめてテレビシリーズの面影を残すくらいの映画で十分だから、新しいことなどせずに、テレビのあのマルコを見せてほしい。それだけが願いだった。

 願いは半分かなえられ、半分裏切られた。脚本が、テレビシリーズと同じ深沢一夫だったことが前者を実現してくれた。フィオリーナ、ペッピーノ、パブロといったこの上なく魅力的なキャラクターが続々登場したからである。
 後者の方は、悪い期待の通り、外国人歌手の歌が主題歌となっていたこと。しかし、その程度は目をつむってよいだろう。あのキャラクターたちを見ていれば、主題歌が違うといった問題は、些細なことに思えてくる。

■5時間の映画
 テレビ時代のキャラクターを多数復活させるという仕組みは、同時に決定的な失敗へと向かう導火線だった。マルコの長い長い長い旅は、96分という上映時間で表現するには、あまりにも短過ぎた。それゆえ、各エピソードやそれに絡む登場人物の描写が忙しくなり、中途半端なエピソードが工夫もなくつなげられるという結果になってしまった。

 96分だなんて、それは無謀だ。少なくとも180分の上映時間が必要である。いや、『1900年』の325分を上回るくらいの長さがあってもいい。興行のシステムを破壊するくらいの、正しい無謀さこそ、この映画に求められるものなのだ。
 5時間を超すロード・ムーヴィーを作れる人物……、これはもう、テオ・アンゲロプロスしかいないなあ、などと考えながら、つながりの悪い、エピソードの連鎖に見入っていると、とうとう「草原のマルコ」そのもののシーンが眼前に広がった。

 トゥクマン行きの列車に、パブロが犠牲になってくれたおかげで何とか乗れはしたものの、結局は乗務員に見つかって列車から下ろされ、アメディオと一人ポツンと残されたマルコの姿。それを包む、本当に「何も見えはしない」光景が我々を圧倒する。
 しかし、このとき、妙に居心地のよい気分に浸っていた。はっきりした理由はわからない。「草原のマルコ」の歌詞通りの世界がそこに展開してたから、とも思えない。ただ、どこにも寄りかかることのできない絶望的な状況に置かれたマルコの姿こそが、「母をたずねて三千里」そのものであることを改めて突きつけられた感はあった。

 長い彷徨の末、雪が降り始め、力尽きたマルコは雪の中で倒れ込む。絶体絶命だ。そこへ通りかかる人物。羊のような動物を連れた老人がマルコを抱き上げ、自分の家へ連れていく。この老人は独り暮らしのようだったが、もしその家で真っ赤なほっぺたの小さな女の子が元気に飛び回っていて、出っ歯でそばかすの少年が羊を連れに現われたりしたら……、という場面を期待したい気分にもさせられる。

 もし、これが実現したら、『直撃!地獄拳 大逆転』のラスト、千葉真一らが送られた網走刑務所に嵐寛寿郎がおもむろに登場する瞬間に匹敵するような驚愕をおぼえることになったであろうが、いくらなんでもそこまでやってはいけないか。

■新企画・国際版『母をたずねて三千里』
 『MARCO 母をたずねて三千里』の価値とは何だろうか。それは新たな企画の喚起を促す力を持っている点にある。まずは先にも述べた通り、上映時間を長くしなければならない。草原で一人残されたマルコが彷徨するシーンだけで、60分は絶対に必要だ。それに加えて個々のエピソードを入念に描くなら、300分という長さでよいだろう。

 監督はアンゲロプロスが最適なのだが、この人はヨーロッパに対するこだわりが強烈なだけに、南米を描く『母をたずねて三千里』は引き受けない可能性が強い。それなら、この人はどうか。雪が降ってくるシーンで思いついたのだが、移動が描けて雪もとらえることができる、アイスランドのフレドリク・トール・フレドリクソンなら、アンゲロプロスよりも楽天的な『母をたずねて三千里』を作ることができるだろう。

 主演はジェイク・ロイド。『スター・ウォーズ エピソード1』で、アナキン・スカイウォーカーこと、若き日のダース・ヴェーダーを演じる注目の子役だ。『スター・ウォーズ エピソード1』ような大作に抜擢されたから、というわけで選んだのではない。彼の代表作はジーナ・ローランズと共演した『ミルドレッド』であり、ほとんど笑顔を見せない不敵ともいえる面構えが貴重だからだ。

 テレビシリーズでのマルコは、あまり涙など見せない強い子、という印象が強かったのだが、今回の『MARCO 母をたずねて三千里』では、泣いてばかりいる。こんなマルコでは満足できない。ジェイク・ロイドにマルコを演らせ、絶対に泣かないマルコを見せてほしいのだ。いっそのこと、泣き顔だけでなく、笑顔も見せないマルコというのもおもしろい。

 フレドリク・トール・フレドリクソン監督、ジェイク・ロイド主演、イタリア、アルゼンチンでオールロケ、上映時間5時間。こんな企画が実現したら、『スター・ウォーズ エピソード1』よりおもしろい映画になる! ……と、思いませんか?

 また、絶対に忘れてはならないのは、「原作」ないし「キャラクター・デザイン」として、深沢一夫だけでなく、高畑勲、宮崎駿の名をクレジットすることである。アメリカ映画では、このあたり制度が厳格に適応されているのだが、『MARCO 母をたずねて三千里』には、高畑勲、宮崎駿の名がどこにも見当たらなかった。権利関係についてはよくわからないが、製作者の誠意として、最低でもあの二人に対する謝意を表明しておく必要があったのではないだろうか。

     
  MARCO 母をたずねて三千里 / 1999年 日本
原作者:エドモンド・デ・アミーチス
脚本:深沢一夫
監督:楠葉宏三

 

←前へ
copyright (c) fullcom