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 03/第参篇 ボクサー 
■ボクシングへの恐しい誤解
ずいぶん直接的なタイトルだ、と誰もが思うだろう。しかし、原題が『BOXER』なのだから、これは仕方がない。むしろ、同じタイトルの日本映画と混同されることの方が問題だ。日本映画の『ボクサー』とは、その早逝後十年を越えて、今なおカリスマ的な人気を誇る元詩人が、二重の誤解の下に作ってしまった珍作である。

 詩の創作に留まらず、演劇、競馬評論などへと活動分野を拡大し、ついには映画という禁断の領域にまで踏み込んでしまったことが、まず最初の誤解だ。もちろん、他分野の人間が映画を作ってはならない、などとは言っていない。他分野で既に認められた人間が、映画の世界でその隠れていた真価を発揮させた事例は、多くはないが存在する。今日におけるその代表的な例が北野武だ。
 北野武くらいの力を発揮していれば、誰も文句の言いようがないのだが、例えば和田誠のように、自分の非力に気づくことなく、ひたすら過ちを繰り返していったのが、他でもないその元詩人だった。作品名をいちいち挙げて、とやかく言う余裕はないが、誤った才能をもって映画に関わり続ける愚かさだけは、強く否定しておく必要がある。

 第二の誤解――それは、格闘技に対する関わり方だ。格闘技を行うという形ではなく、あくまで外部から見る形で、あたかもこの世界に入り込んだつもりになってしまった誤解は大きい。この元詩人は、何を間違ったのか、『あしたのジョー』の主題歌を書いている。今だに首をかしげざるを得ないフレーズがそこにはある。
 「憎いあんちくしょう」とは何だ? 石原裕次郎の主演映画からタイトルを拝借したと見なしても、それはあまりに低次元なオマージュにしかなりえない。では、矢吹丈が力石徹を憎んでいる、ということなのか。物語の当初はともかく、丈の力石に対する感情に、「憎しみ」など介入するところではないことは、今さら指摘するまでもない事実だ。

 ボクシングという競技の世界で、いやボクシングに限らず、空手でも、テニスだってよい、対戦相手に対して憎しみを抱くような精神状態で、勝利が望めようか。よこしまな感情を持ち込むことなく、競技に集中することが、勝利への道だ。競技、そして勝負の世界で、最終的な敵とは、結局自分自身とならざるを得ない。 己の肉体を懸け、相手を痛めつけることによって勝利を目指すボクシングを、喧嘩のような争い事的レベルでとらえてしまった誤解は、その元詩人が、もしこの競技に選手として従事していたならば生じなかったに違いない。見ることによって増殖していく、格闘技への誤解。その恐ろしさを、今一度戒めなければならないだろう。

■外的要素による迫害
テロ活動か何かに参加した罪を負い、服役した主人公。演じるのはダニエル・デイ=ルイス。塀の中で、黙々とシャドーを行う彼の姿をロングでとらえたショットから映画は始まる。
 お、いいじゃないか。ムエタイ選手でなくともタイ人がムエタイの動きを自然に行えるように、イギリス人はボクシングの動作が自然にできてしまうのか、と思わされる。しかし、それはジャブまでだった。右ストレートがやけに固い。本物のトレーナーが付いて本格的なトレーニングを行ったらしいが、この程度だったか、と失望させられる。

 出所したダニエル・デイ=ルイスは、元コーチと再会し、閉鎖されて老人用のコミュニティみたいになってしまっていたジムを復活させる。リングを修理し、ロープを引きずりだしてリングに張り、古いグローブやミットを集めるなど、ジム再開への過程が快く、ファースト・シーンでの固い右ストレートなど、いつしか忘れてしまう。
 ダニエル・デイ=ルイスとコーチは二人だけのトレーニングを始める。ここからだ、ダニエル・デイ=ルイスが見違えるような動きを見せ始めるのは。スムーズなロープワークとフットワーク。ミット打ちでは、スピードと重みのあるパンチが軽やかに打ち込まれる。ミット打ちを見れば、どれだけの実力があるか、本物のパンチであるかは、はっきり分かる。

 ジム再開を聞きつけた周囲の若者や少年たちが続々入門し、たいへんな活気を呈し始める。充実した練習を積んでいれば、当然、実力を試すべき時期が来る。となれば、交流試合の開催だ。特に「宗派を問わず」と謳ったコンセプトは、アイルランド抗争の火薬庫みたいなこの地域で、賛否両論を巻き起こしながらも、ボクシングによる和解が感動的に進められる。
 しかし、どこの世界にも過激派や天の邪鬼はいるもので、結局彼らから目を付けられたこのジムは、何と子供の放火によって全焼させられ、活動停止を余儀なくされてしまう。

 主人公は闘いの場を求めて、ロンドンの地下ボクシング(といっても高級ディナー・ショー)に出場する。左ジャブに始まり、左フックへの変化、そして決めの右ストレートなど、セオリーをしっかり踏襲したダニエル・デイ=ルイスのボクシングは、リアリティのある動きがますます冴える。
 地下ルールは、スタンディング・ダウンを認めない。3度のスタンディング・ダウンを奪ったダニエル・デイ=ルイスは、勝利を目前としながらも、ダメージの蓄積した相手を気遣うあまり、自らリングを降りてしまう。沸き上がる観客席からの罵倒。プロモーターには追放を宣告される。

 ボクシングを行いたいという純粋な意志は、さまざまな外的要素によって迫害されざるを得ない。日本でも、仕事や家庭など、ボクシングを迫害する外的要素は、身近にいくらでも存在する。それでもボクシングを続けていける人たちは、彼らの強固極まりない意志力と幸運とが、それを可能にしているのだ。

■ボクシング映画の宿命とは
 ボクシング活動を迫害する外的要素。それは、映画がボクシングを描く場合の、避けては通れない題材だった。外的要素は、映画において、そう多くはない。ほとんどの場合が、八百長試合に終始している。

 『ボディ・アンド・ソウル』『罠』『チャンピオン』などの暗黒街からがんじがらめにされたボクサーたち。ボクサーとしての自覚に目覚め、自らの誇りを貫くためには、選手生命、いや生命そのものまで捨てなければならない。ロッキー・グラジアノの伝記を映画化した『傷だらけの栄光』とて、八百長の束縛から逃れ得ていない。
 ボクシングと映画を結ぶテーマが八百長であるとは、何とも悲しい。だが、この悲しいテーマが連綿と続くことによって、ボクシング映画史を著しく貧しいものにしている事実は否定できない。こうした歴史に目をそむけることなく、今日敢えて八百長ボクシングを扱っていた『パルプ・フィクション』は、その視点というレベルにおいては評価されてよいだろう。

金銭問題が絡むにしても、八百長問題からは離れ、闘いそのものにより重みを持たせた『ファイティング・キッズ』は、ボクシング映画史の健全な発展形であり、『ボクサー』もその延長線上にあると見なすことができるだろう。
 ただ、ここで忘れられてはならないことは、『ロッキー』シリーズが、ボクシング映画史はもちろん、映画史そのものとも接点を持たない、ハリウッドを崩壊に追いやった反共思想の無意識なドラマ化に他ならず、八百長という問題によって非米活動委員会との映画上での戦いを表現していた多くのボクシング映画の作り手から呪われて余りある、極めて反動的な作品であることだ。

 なるほどアカデミー作品賞を獲得するのは、こうした映画なのか、と今さらながらに思い知らされるが、ボクシング映画の仮面をかぶった『ロッキー』などを見ることで歴史の暗部から逃避し、自堕落な道を歩んでしまうことだけは、強く戒めなければならない。

     
  THE BOXER C.E. / 1997年 アメリカ 製作:ジム・シェリダン
監督:ジム・シェリダン
脚本:ジム・シェリダン 、テリー・ジョージ
出演者:ダニエル・デイ=ルイス 、エミリー・ワトソン 、ジェラード・マクソレー
 

 

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 04/第四篇 幸福の設計 

■ボクシング映画
 映画でボクシングを題材にする場合、ボクシングそのものを描くことなどは到底不可能であり、八百長、犯罪、裏切りなど、物語上のモチーフになるくらいが積の山だということは、第弐篇の『ボクサー』で述べた通りだ。

 日々の暮らしに困る、というほどではないが、決して裕福ではない、どこにでもいるような夫婦が、宝くじに当たりながらも、その当たり券を紛失したことから、ひと騒動が持ち上がる、という『幸福の設計』の設定は、それほど凝ったものとはいえまい。むしろ、のどかな雰囲気を漂わせた暖かみが感じられる。
 ま、そんなことは、さしたる問題ではない。「ボクシング映画」として名高い、というか誤解されがちな『殴られる彼奴』も『チャンピオン』も『傷だらけの栄光』も『罠』も『ロッキー』も『レイジング・ブル』もボクシングそのものを描けなかったという点において、ボクシング映画と呼べないことは既に明らかなのだが、ジャック・ベッケルの『幸福の設計』が夫婦の生活を描いた家庭映画かというと、どっこいこれがボクシング映画たりえていることが問題なのだ。

 正確に言うと、『幸福の設計』は、ボクシング映画とは呼べない。しかし、我々の油断を不意撃ちし、ふとボクシング映画と化してしまう。そんな、正に「幸福」な瞬間を有する映画、と表現するのがふさわしかろう。ヒロインとなる若く美しい妻に、彼女がよく使う小売店を経営する実業家がちょっかいを出してくる。夫婦ともども、何とかそれをかわしてきたのだが、宝くじの当たり券をなくしてしまった日に、またもその実業家が夫婦のアパートに現われたため、夫の怒りが爆発する。

 ここからだ、ボクシング映画、いやもっと純粋な格闘技映画が開始されるのは。怒りあまった夫が実業家をぶん殴る、というところまでは納得できる。ところが、五十を過ぎていよう初老の実業家が反撃を開始するのだ。しかも、強い。実業家の強打に、主人公が何度も窮地に立たされてしまうくらいだ。
 こんなことを書けば、何かおかしい、と思われることだろう。素人同士の喧嘩に過ぎない殴り合いで、なぜ主人公が何度も窮地に立たされなければならないのだ? しかし、この映画は見る者に有無を言わせない。これまで、夫婦の日常を細やかに描いてきた映画が一転し、闘いが長々と、しかもこれまたきめ細かく描かれるところに、我々観客は呆気にとられながらも、黙って付き合うハメとなる。

■格闘技映画
 このシーンにあるのは、ひたすら殴り合う二人の男と、それを取り巻く人たちの姿だけだ。もちろん殴り合いの発端には、二人の男の感情のぶつかり合いがあるわけだが、いわゆる「ボクシング映画」にありがちな、それを契機とする犯罪などは、一切存在しない。ここに、ボクシングをモチーフとして何か別の物を描く映画と、一瞬の感情を機に始まる殴り合いそのものを描く映画との決定的な違いがある。ボクシング映画、広くは格闘技映画とは、後者を指す。

 殴り合いが展開する映画というなら、それは無数に存在する。ライフルによる銃撃戦よりも、むしろ殴り合いに美しさを発揮するジョン・ウェインが、『静かなる男』や『赤い河』などでヴィクター・マクラグレンやモンゴメリー・クロフトを相手に演じた迫力満点の殴り合いが、すぐさま思い浮かぶだろう。
 それらと異なり、『幸福の設計』がより格闘技的な側面を見せるのは、そこに「見る側」が介入してくるからである。夫と実業家の争いを止めようと、妻はアパートの部屋を片っ端から叩きまくり、アパート中の住人がたちまち全員集合してしまう。彼らが仲裁に入って一件落着、と思っていたら、とんでもない。住人たちは、ひたすら「見る側」に徹し、成りゆきを楽しんでいるのだ。

 ただ一人冷静であるかに見えたヴァイオリン弾きが、たった一人、戦いの真只中に入っていく。ここで、ようやく終結を見るかと思ったら、激闘によって栓からはずれてしまったガスのホースを元に戻す、という処置を施して、観客席(ドアのところ)へおもむろに返っていく。さすがに冷静だ、と感心されらることはなく、この徹底した態度に、ますます呆気にとられるばかりだ。
 パンチの応酬が続いた末、主人公の一撃が実業家を見舞い、実業家がダウン。しかし、ここでも「見る側」は、見るだけに徹し続けるばかり。口の達者なお調子者が、突然カウントを唱え始める。いつしか、それに同調する住人たち。最後は全員が声を合わせてカウントダウンだ。喧嘩の仲裁も何もあったものではない。

 争い、喧嘩、憎しみ……といった要素がすべて消し去られ、純粋に格闘としての殴り合いがここに提示される。闘いに不要な危険物(栓からはずれたガスのホース)を排除することは、つまりルールの厳守であり、格闘する者とそれを見る者の厳格な区別、そして闘いの幕引きとしてのカウントダウンなど、試合の設定に極めて近いものを見てとれよう。
 我々はここで、あらゆる感情や条件設定などから自由となって、二人の殴り合いを純粋に見つめることができる。ボクシングが題材になっているからといって、その映画の中にボクシングを見ることなど、極めて困難なのである。映画において、ボクシング、そして格闘技と向かい合うことができるのは、映画そのものと純粋に付き合っていく過程での、偶然の産物でしかありえない。

 ブルース・リー映画の中で格闘技を見ることができるのは、映画という巨大な土壌の中から石ころを探し出すに等しい非常に稀な例であり、むしろ、映画の中で格闘技に接することなど期待してはいけない、といった方が圧倒的に正しい。『燃えよドラゴン』を初めて見たのも、それはブルース・リーの格闘芸術ジークンドーを見たいからではなく、ブルース・リーという当時得体の知れなかった凄いものに興味を惹かれたからに他ならないのである。

     
  幸福の設計/Antoine et Antoinette(1947、フランス、ゴーモン)
監督・ジャック・ベッケル
脚本・ジャック・ベッケル、モーリス・グリッフ、フランソワーズ・ジルー
撮影・ピエール・モンタゼル
セット・R. J. Garnier R・J・ガルニエ
音楽・ジャン・ジャック・グリュネンワルド
製作・C. F. Tavano
出演・ロジェ・ピゴー、クレール・マッフェ、ノエル・ロックヴェール、アネット・ポアーヴル、ポーレット・ジャン、ジャック・メイラン、ピエール・ツラボー、Yvette Lucas、Mademoiselle Barancey、ジャンヌ・マグナ、ユゲット・ファジェ、Francois Joux
 

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