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 37/第参拾七回 ブラックボード 背負う人 http://www.office-kitano.co.jp/blackboards/ 
 
■ 鳥のイメージ
 男たちが、何やら四角いものを背負って歩いている。実に奇妙な光景だ。こんな光景をフィルムに収めただけで、この映画は八割方成功したといってよかろう。
 しばらくすると、説話上、彼らが背負ったものが、黒板であることが判明するわけだが、黒板としての機能が生かされるよりも、ひたすらその背負った姿ばかりが目を刺激してやまない。それは、まるで羽を広げた鳥のようだ。
 延々と地を歩む彼らの上を、突然、飛行機が飛来する。鳥のような姿の人間から、空を飛ぶ飛行機へとイメージが移行するのだ。さらには、飛行機が飛び去った後に画面を覆うのは、群舞する鳥たちである。
 鳥のような形態の人間たち→飛行機→鳥。これが何の意味だ、などと述べることはできない。ただ、似たような形が連鎖していく、ただそれだけのことを、この映画は愚純なまでに淡々と映し出している。

■ 歩行の模倣
 鳥のイメージを持つ男たちは、裏物資を背負って運ぶ子供たちに接触し、共に国境へと歩み始める。鳥の形態から、何かを背負って歩くという運動が相似的に模倣され、さらには難民たちの行進へとつながっていく。
 この模倣は、黒板を背負った男が、唯一教育的な成果を発揮する、発音の練習にも見てとれる。「ペッ・ウー」という発音を、子供がひたすら反復するさまは、鳥のイメージが相似形として連鎖され、歩く運動が繰り返されることと同じレベルにおいての、模倣なのだ。
 映画のクライマックスは、子供たちの国境越えで訪れる。それまで、二本足で歩行してきた子供たちが、羊の群れに交じり、四つん這いで身を隠しながら国境を越えようとするのだ。形態や運動を相似形として模倣する行為が、ついに映画の沸騰点として機能した瞬間である。

■ 素の映画
 映画の結末を書いても、この映画なら、問題なかろう。子供たちは、唐突に射殺され、映画は終わる。例えば、学校へ行けずに裏物資を運んで生活しなければならない子供たちへ学問を教える努力、といったものが前面に出てくるわけでも、難民たちの苦難が強調されるわけでもない。
 一般的に、映画を見て記憶に残るものとは、画面に映し出される物自体よりも、流れにおいて浮かんでくるストーリーが主になるわけで、この映画を見た人たちは、ずいぶんと辛い思いをされたに違いない。ストーリーが浮かんでくることなく、ひたすら歩く行為を見せ続けられるのだから。
 それだけに、こうした映画を作ることは、勇気のいる作業なのだ。映画に付随してくるもので勝負するのはたやすいが、画面に映っているものだけで勝負するのは、生半可な意志では不可能だ。
 素の映画、とでもいえるこの『ブラックボード 背負う人』を作ってしまったのは、イランのサミラ・マフマルバフ。父親であるモフセン・マフマルバフよりも遥かに才能豊かなこの女性が、今後いかなる素の映画を生み出していくのか? 期待は高まる。

 

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 38/第参拾八回 グラディエーター http://www.uipjapan.com/gladiator/ 
■ 豊かな表情
 人はどのような理由で映画を見にいくのか? ストーリーに興味があるから。好きな役者が出ているから。世間で話題になっているから。それはさまざまだ。
 料金が安いから、というのも立派な理由だろう。多くの映画館で、水曜日は女性が1000円というサービスを実施しているが、どの映画でもよいから、水曜だけを狙って見にいく、というのも確固たる態度として認められよう。
 『グラディエーター』は、昨年7月に見ているわけだが、もう1回見た理由は、別にラッセル・クロウがアカデミー賞を受賞したから、ということではない。単に、1000円という低料金にそそられただけの話だ。
 それでも、最初に見たときよりも収穫は大きかった。その収穫とは、ラッセル・クロウの表情が豊かだったことである。
 いつもつまらなそうな顔をしている、というのがラッセル・クロウだとばかり思っていたのだが、この映画では、いきなり笑顔を見せてしまうから驚かされる。その後も、表情の豊かなこと。やっぱりアカデミー賞というのは、無表情なまま全編を通すようでは、もらえない代物なのか。

■ 世界最強は誰か?
 ラッセル・クロウって、こんな表情豊かだったのか、と思うとなぜか不満で、彼の無表情ぶりを確認するために、『プルーフ・オブ・ライフ』をもう一度見る。ちなみに、新宿ピカデリーでは、夜の料金が1300円均一。これも安いから見たようなものだ。
 『プルーフ・オブ・ライフ』でも、意外に表情が豊かで、いささかがっかり。こうして考えると、可能なかぎり、ひたすら無表情を貫いているビートたけしは、貴重な役者なのだと、改めて感心させられる。
 ラッセル・クロウの無表情ぶりには、もう期待できない感じになったが、新たな印象として、彼が世界最強の座に近づこうとしているのではないか? ということが浮かび上がった。

 黒沢清監督が、『許されざる者』の批評で、クリント・イーストウッドは、自分が世界最強であることを示している、といったことを書いていた。今でいえば、世界最強はラッセル・クロウなのかな、と思えてくる。
 『L.A.コンフィデンシャル』が、まず強い。『インサイダー』は別として、『グラディエーター』は、ゲルマニアを制圧して、剣闘士の中で最強の座を勝ち取り、さらにはローマ皇帝を倒してしまう(!)という驚愕の展開で、政治的にも最強となった。
 そして、『プルーフ・オブ・ライフ』。単なる戦闘よりも難しい、人質の救出をプロフェッショナルとして続けているのだから、これも強い。着実に世界最強への道を歩んでいるのではないか。

 クリント・イーストウッドがあの年になってしまい、ラッセル・クロウとの直接対決が難しい気もするが、何とか実現できないものか。クリント・イーストウッドなら、かなり強引な攻撃をしかけてくるに違いない。
 他にも、スティーヴン・セガールやカート・ラッセルなど、最強のイメージを強調する役者は多いが、もう一人対抗できるとすれば、それはショーン・コネリーである。ニコラス・ケイジ、エド・ハリスと、相手にとって不足があった『ザ・ロック』よりも、さらにハードな条件で、ショーン・コネリーには、クリント・イーストウッド、ラッセル・クロウと三つ巴の戦いを展開してもらいたい。勝つのは誰か? さすがにこの3人では、予想がつけがたい。


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