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 35/第参拾五回 BROTHER http://www.office-kitano.co.jp/brother/ 
■ 居心地悪きストレンジャーたち
 道端でぶつかったオマー・エプスを、ワインの瓶と人差・中指二本拳の二発でやっつけたビートたけしが、弟の寝ぐら目指して歩く。彼の知らぬこの土地は、アメリカという国のどこか、ということで私たちを納得させることもなく、ビートたけしを拒む姿勢のまま、この映画を見る者に対し、どこまでも同調を許さない。ビートたけしが見せる居心地の悪さは、そのまま私たち見る者が感じる居心地の悪さなのだ。

 映画の舞台となる土地を、心地好く、華麗に見せることは、いともたやすい。最近の極端な例を挙げれば、『オータム イン ニューヨーク』で全篇を埋め尽くすニューヨークの風景は、「これぞニューヨーク!」と胸を張って主張されるべき観光映像であり、ニューヨークがいかに素晴らしい土地であるかを、これでもか、と叩きつけるかのように見る者の視覚へと流し込んでくる。
 『BROTHER』のロケ地がどこであるかは知らない。しかし、それらの土地が、名称という安心感と共にフィルムへと定着されていない点が重要だ。ここは日本、ここはアメリカ、ここはフランス、ここはパリ、ここはセーヌ河岸…と、観光的な安心感に浸って見ることなど許さない土地。それを、ある人は「どこでもない場所」と呼ぶ。この空間は、映画が映画として成立するかしないかのギリギリの臨界点でこそ浮上する、映画だけが持ち得る奇跡でもある。

 そうした土地が、『BROTHER』以上の痛みと居心地の悪さをもって迫ってくる映画がすぐさま脳裡に浮かぶ。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、チェコスロバキアからニューヨークにやってきた人間たちの悪戦苦闘を描いたものだが、そこに映し出される土地は、それこそ『オータム イン ニューヨーク』からは程遠い光景であり、ジョン・ルーリーら登場人物たちは、懸命にその地と同化しようとしつつも、どうしても自分の土地として安住することができない居心地の悪さを四方に発散している。

 ニューヨークからクリーブランドへ、クリーブランドからフロリダへと移っていっても、それぞれの地は決してパラダイスへとは開かれず、ジョン・フォードの空も、溝口健二の海も登場しないまま、わずかずつながら交流が進展されつつあった2人の男と1人の女の関係が、あえなく崩壊して映画の終わりを告げるしかない。

■ 映画の誕生へ
 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が、ヴィム・ヴェンダースからジム・ジャームッシュに贈られた高感度フィルムによって生み出された経緯を思い起こすまでもなく、いま1本の傑作もまた、土地と人物の相容れない様を描き出したがゆえに、痛みと居心地の悪さをもって私たちを撃つ。
 ポルトガルでのロケシーンもそれなりの雰囲気を醸し出してはいたが、何といっても、パトリック・ボーショーがアメリカへ到着してからの不快感こそが一層際立つ『ことの次第』は、映画自体が臨界点にあるだけではなく、物語の上でも、映画が成立するか否かの瀬戸際で登場人物が右往左往する、極めて異例の状況にある映画だ。

 当然ながら、アメリカの地とはいっても、それがどこであるかは、容易に判別しがたく、それどころか、映画の終盤は、トレーラーに乗ったまま、監督と、資金調達に失敗した製作者が、けだるい「夜のドライブ」を延々と続けるばかりなのだ。
 映画はそれでも追撃をやめない。トレーラーを降りた製作者は即座に射殺され、監督もまた銃弾に倒れる。こんな結末がありか? そう思わせた瞬間、映画は幸福の時へと急転する。画面に映し出される光景は、監督の構えたカメラからの映像へと換わり、監督が地に伏していく過程に合わせて画面も傾き、地に倒れ込んでいく。

 登場人物は殺されても、映画がここで誕生する。映画作りの映画が数多く作られてきた中で、『ことの次第』が決定的にそれらと違っているのは、この瞬間を有しているからだ。そこには、これもやはり映画の誕生につながる、映画作りの映画『映画に愛をこめて アメリカの夜』に等しい幸福感が満ちている。
 異国における居心地の悪さ、そして主人公の死。『ことの次第』の要素や構造に多くの共通点が見られる『BROTHER』に、映画の誕生する瞬間は到来するのか? その答えは、居心地の悪さから次第に解放されていくビートたけしの表情と行動を見ていれば、自ずと明確になることだろう。

 

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 36/第参拾六回 キャスト・アウェイ 
■ エイゼンシュテイン=マイケル・カーティス?
 かのオーソン・ウェルズが、セルゲイ・M・エイゼンシュテインを、ソ連のマイケル・カーティスだ、と喩えたという。自身が唱えた映画理論などによって、その作品群自体の魅力がかえって忘れ去られているエイゼンシュテインに対する映画史の誤解を、オーソン・ウェルズは何とか払拭すべく、『カサブランカ』を代表作とするのもあまりに悲しいが、『カンサス騎兵隊』『海賊ブラッド』『汚れた顔の天使』など、数々の快作を残したマイケル・カーティスの名に喩えるという苦肉の講じたのであろう。

 それにしても、喩えが悪すぎはしまいか。エイゼンシュテインがマイケル・カーティスとは…。スチール写真だけしか残されておらず、それらをつないだ形で流布してる『ベージン草原』や、さあこれから農民たちが権力者の横暴に反旗をひるがえすのだ、となる直前で終わってしまう『メキシコ万歳』など、未完成の映画でさえ、エイゼンシュテインの映画群は、『カサブランカ』とは比較にならない興奮に満ちている。

■ トム・ハンクス=大河内傳次郎?
 この文章の目的は、オーソン・ウェルズが犯した悪しき喩えに匹敵する愚行の敢行にある。
 それは…、
 トム・ハンクスは、現代の大河内傳次郎だ。
 …と宣言することだ。
 トム・ハンクスが、現代アメリカ映画を代表する俳優であることはよく知っているつもりだ。映画に登場した当初は、ガキっぽい役者、というイメージが強く、『スプラッシュ』や『ビッグ』など、その路線では成功を収めはしたものの、いずれは観客にも飽きがくる。違うイメージを求められ、しばらく低迷した時期も当然来たが、そこは持ち前の自力で挽回し、『プリティリーグ』ではガキっぽさを一掃。

 『フィラデルフィア』でアカデミー主演男優賞を受賞し、翌年には『フォレスト・ガンプ 一期一会』で2年連続のオスカー受賞という、スペンサー・トレイシー以来の快挙を成し遂げた。それ以後も、『アポロ13』『プライベート・ライアン』『グリーン・マイル』など、数々の話題作・ヒット作に出演し、いわゆる「演技派」として不動の地位を確立している。
 だが、トム・ハンクスのそうした華々しいフィルモグラフィをたどってみても、トム・ハンクスが優れた映画俳優ではないという意識を再確認するだけの作業にしかならない。トム・ハンクスと同じく1980年代、90年代を活躍の舞台としてきた映画俳優なら、アーノルド・シュワルツェネッガーの方が上である、と胸を張って主張したいくらいだ。
 しかし、『キャスト・アウェイ』で事態は逆転する。トム・ハンクスは、アーノルド・シュワルツェネッガーなどの及びもつかぬ一大映画俳優へと脱皮したのだ。

■ 顔と変化で映画は成り立つ
 ロバート・ゼメキスの演出には、さすがにうんざりさせられるものの、それがどうでもよい思い始めるほど、『キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスは素晴らしい。この映画のすべてがトム・ハンクスによって成り立っている。その要因とは、トム・ハンクスの顔と変化である。
 仕事一筋の人間が、飛行機事故で無人島に漂着し、そこでの生活でまったく別の人間になってしまう。こうした展開をトム・ハンクスが忠実に演じたから素晴らしいのでは決してない。変化とは、肉体そのもの、顔そのものの変化だ。
 食料といえば、ヤシの実と魚くらいしかない無人島での生活が、主人公から無駄な脂肪を奪っていくことは自然の摂理であるが、漂着後間もなくはでっぷりとした腹をもたつかせていたトム・ハンクスが、4年の後には引き締まった肉体に変化している。
 島での髭面ではわからなかったが、アメリカに還ってから髭なしの素顔となり、顔も大きく変わっていることが明らかになる。
すべてのものを諦めたかのようなこの無表情が、社会的にどんな意義を持つかといった域ではとらえようもない、顔そのものの迫力となって見る者を圧倒する。

 その表情が表現する感情などといったものを超え、顔だけが意味もわからず異様な衝撃となってスクリーンから飛び込むこの迫力。これこそ大河内傳次郎が発揮し続けた魅力であった。それに近いものを、今、トム・ハンクスに見ることができるとは…。
 トム・ハンクスの『キャスト・アウェイ』は、先のエイゼンシュテイン=マイケル・カーティス的な不均衡を恐れずに言えば、大河内傳次郎の『忠次旅日記』に似ている。『忠次旅日記 信州血笑篇』のラストで、忠次はぼろぼろになって去っていく。しかし、『忠次旅日記 忠次御用篇』の冒頭では、造酒屋の番頭として別人と見紛うような姿を見せる大河内傳次郎。
 大河内傳次郎は好んで一人二役を演じたが、それは一個の俳優が見せる変化を強調したかったがゆえなのだろう。こうした変化を、トム・ハンクスは、中風で身体が動かなくなる『忠次旅日記 忠次御用篇』の大河内傳次郎よりも、さらに静的な迫力をもって実現している。

 ヘレン・ハントと別れねばならないシーンでの、諦念に満ちた姿と表情、そしてラストのあの表情。大河内傳次郎生誕百年の後、ついにそれに次ぐ映画俳優が現れたことを確信できる瞬間が訪れたのだ。
 『キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスを全面的に受け入れたい。今後の活躍に瞠目したい。そして、何よりも、3度目のアカデミー賞などという不名誉な事態には陥ってほしくない。今の願いはそれだけだ。


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