格闘伝説BUDO-RA 第5号 


 
BUDO-RA 第5号
 
第5号 2003年5月23日発売

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カラーグラフ

増田章
極真カラテ革命
地上最強の復権へ
新ルールの提案

新たなる格闘技へ 融合ルールから何が生まれるのか?
対談 増田章×太田章

目突き、金的、素手の顔面パンチ これがFSAアブソリュートだ

ブルース・リーメモリアル システムを超越したとき、人は自由になれる


特集
増田章 極真カラテ革命 増田章 激動の空手道人生

伝統武術の復権を目指す  革命者達
FSAアブソリュート 
目突き、金的、素手の顔面パンチ――究極の実戦ルールは
これだ FSA拳真館館長   羽山威行

ナイフ捕りの実験ルルとは? 佐藤貴生

合気を使うための試合     萩原俊明

目隠し、一本橋、雑踏での戦うカンフー
学界で伝統武術とルールを問う  對木佳史

大会は主催者のメッセージである  神村栄一

木村修の強くなるネタ 第5回 パンチ力について

K-2 GRAND PRIX 第14回 全日本新空手道選手権大会

ボブ・サップがやってくる

極真館奥伝 三戦から学ぶ気と呼吸

達人に訊け!強くなるQ&A 盧山初雄/倉本成春/藤原敏男

山田編集長の今月の格闘技学 新連載 BUDO-RA推薦! 
 イチ押し道場はココだ!  挑戦しつ づける空手 超越塾

真樹日佐夫千夜一夜

功朗法 現代を生き抜くための護

身術 第一回 対ナイフ

最強へのプログラムとは?西良典

BUDO-RA 格闘RA
プレゼント

 
TRY 

■増田章 激動の空手道人生
 極真全日本優勝を始め、華々しい戦績に彩られた増田章師範の武道人生であるが、
その中には、想像を絶するような紆余曲折と試行錯誤、そして挫折が、あった。
 増田章師範の闘った試合を振り返りながら、その経験が増田師範の武道人生にどの
ような影響を与え、成長を促してきたかを探っていきたい。
(構成・文 野沢靖尚)

(写真1)
高校生時代の増田章少年(右端)。左は、増田師範の才能を引き出し、育ててくれた
恩師の浜井識安支部長。左端は、増田師範の先輩である水口敏夫氏。

第2回首都圏交流試合

 増田章師範のデビュー戦が、1980年に行われた第2回首都圏交流試合であった。
 高校で柔道部を自ら新設してしまったほど、柔道にかけ、猛稽古に明け暮れていた
増田師範であったが、層の厚い柔道界にあって、高校で柔道を始めた人間が、インター
ハイを制覇するのは至難の技であった。
 柔道の夢破れ、「もう、俺はダメだ、と涙していました」と言う増田師範だったが、
ちょうどその時期、極真会館の石川支部が創設された。
 柔道をしっかりマスターし、東京の大学に行って極真空手を学ぼうと思っていただ
けに、極真空手に入門するのは、自然な流れだった。
 柔道で挫折を味わい、すっかり自信を喪失していた増田師範だったが、恩師の浜井
識安支部長に、その才能を見出され、持ち前の稽古熱心さもあって、極真空手にのめ
り込んでいった。高校に通いながらも、1日4、5時間の練習は当然だった。
 そこで出場を促されたのが、この首都圏交流試合である。当時、極真の大会は、地
方大会がなく、全日本の他には、首都圏交流試合くらいしか、実力を試す場がなかっ
た。石川支部から、はるばる東京の大会へ、先輩の水口敏夫氏とともに乗り込んでいっ
たのだ。
 結果、水口氏が優勝、増田師範が3位。石川支部の強さを関東に知らしめることと
なった。
 次なるターゲットは、当然、秋に行われる全日本大会である。しかし、3位という
結果を考慮し、もう1年辛抱してから、翌年の第13回大会に出場するよう、浜井支部
長から抑えられた。この年の12回大会は、増田師範のライバルとなる松井章圭氏がデ
ビューし、17歳にして第4位という好成績を上げていた。


第一回全日本コンタクト空手道選手権大会

 1981年に開催されたこの大会は、今日、あまり振り返られることのないが、スー
パーセーフを着け、顔面への手技を認めるこの大会には、伝統派、硬式空手、極真の
石川支部、極真以外の直接打撃制空手などが出場した、時代を先取りしたかのような、
重要な意味を持つ大会であった。
 顔面への手技を禁止する極真ルールであるが、石川支部では、浜井支部長の指導下
において、顔面パンチの研究も、熱心に行われていた。しかも、極真以外の大会へ、
実際に出場するのは、非常に勇気のある行為であった。
 ポイント制のルールであるため、増田師範は、下段廻し蹴りで、伝統派の選手を倒
してしまい、これを反則にとらえてしまった。伝統派の選手は、出入りが速く、突き
を放って下がり、そこから追い突きを決められた。
 増田師範は、この大会を通じ、 「伝統派恐るべし、しっかり研究しなければいけない」
 と自らを戒めた。

(写真2)
第一回全日本コンタクト空手道選手権大会で3位に入賞。

(写真3)
増田師範が、第一回全日本コンタクト空手道選手権大会で授与された賞状。顧問の名
前には、小西康裕氏を始め、空手界の錚々たる歴々が。空手界大同団結の兆しが、垣
間見られた一時期が、そこにあった。



 
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