格闘伝説BUDO-RA 第12号 

 
BUDO-RA 第12号
 
第12号 2003年12月23日発売

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護身武術
武器を制する素手の武術の理とは?

盧山初雄 武術空手の間合と反射
二宮城光 サバキの真髄
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護身武術
武器を制する素手の武術の理とは?

盧山初雄 真の武道空手とは何か?
武術空手の間合と反射 指導 盧山初雄

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BUDO-RA 格闘RA

表紙写真 盧山初雄

 
TRY 
■真の武道空手道とは何か?

語り 盧山初雄 極真空手道連盟極真館館長

構成 本誌編集部

顔面と武器の間合を探る

 顔面への手技がないと、怖さを感じません。しかし、顔面を手で攻撃されるとなると、痛みがありますから、当然、間合を意識せざるを得なくなります。
 さらに、武器での戦いになれば、仮に刃物だとしたら、触れただけでも怪我をしますし、下手をすれば、死に至ります。
 元来の武道としての空手道は、そうした戦いを前提としたものであり、大山倍達総裁は、常に「極真空手は、スポーツではない。武道である」と主張されていました。
 武とは、「戈を止める」と書きます。それは、武器を素手で封じるという意味にも通じるのです。
 武器に対する素手の対応を身につける。武器に対して武器による対応も身につける。
さらには、一対一の戦いに留まらず、対複数の戦いも想定しなければなりません。さまざまな状況に対応できるのが、武道のあるべき姿です。
 空手には、サイ、トンファーなど、もともと武器術が含まれていました。広く中国拳法に目を向ければ、太極拳、八卦掌、形意拳など、それぞれの門派に武器術とその稽古法があったのです。
 極真館では、武器の稽古を取り入れています。素手で武器に立ち向かうためには、武器の特性を知らなければいけません。自分が武器の使い方を知らなければ、防ぐことはできないのです。
 例えば、槍ならば、突いたら引く、という特性があります。日本刀は、上から下に斬り下ろす、あるいは突くという特性になります。ナイフなら、突く、斬る、逆手に持つ、などの使用法があります。
 王郷斎老師は、「武器は手足の延長である」とおっしゃいました。武器を動かすのは、あくまで体であり、生身の人間の素の動きが大切である、とされたのです。素の動きを認識した上で、武器を持ち、使用するのです。
 間合とは、命を守る境界線です。しかし、空手を競技だけでとらえ、顔面の攻防を疎かにしている人間は、間合の意識が曖昧になっています。
 極真空手は、長い競技としての歴史において、顔面への手技を禁じてきました。これは安全面ということでそう設定せざるを得なかったわけですが、ルールが定着することによって、弊害が生じてきました。
 顔は叩かれないものだ、ということを念頭に置いて、勝ちさえすればいい、という闘い方をしているため、顔面に対する攻撃を受けられなくなり、さらには間合というものがなくなっている。
 顔面への攻撃なら、一撃で倒す可能性が高くなりますが、腹への攻撃は、直接打たれても、致命的にはなりにくいため、どうしても手数が重視されるようになります。
 しかし、顔面への手技が入ると、勝手がまったくちがってきます。顔から下は、我慢ができる。感情的にもなりません。顔は、少し叩かれても、カーッとなります。いい攻撃が入ったら、我慢しようとしても我慢しきれません。
 澤井健一先生は、中国で戦争を体験されたのですが腹を銃剣で刺され、貫通していても、走る余力はあり、まだ2、3人は殺せる、と話してくださいました。
 しかし、頭に、刀が2〜3センチ入ったら、我慢しようがない、ともおっしゃいました。頭をやられると、首脳部が破壊され、意識が寸断されてしまうのです。
 体におけるすべての神経が顔に集中してくるわけですから、顔への攻撃に対しては、人間はナーバスにならざるを得ないのです。
 顔面への手技がない競技では、半足踏み込めば当たる距離での闘いとなります。その場でも、すれすれに当たるくらいです。これでは、相手の攻撃を受けても、それが致命傷になるとは考えにくい。
 顔面への手技があると、一足踏み込まなければ届かない距離になります。顔は、叩かれたら我慢できませんから、かわす、あるいは受けることを考えなければいけません。
 中段だけを打ち合うのでしたら、打たれたら打ち返す、ということができます。体作りをしておけば、大丈夫です。しかし、顔面は、殴られたら殴り返す、ということにはならないのです。
 顔面への攻防を行わないと、技は完成されないのです。
 大山道場時代は、ふだんの稽古で、顔をバンバン手で打っていきましたから、顔面を必ず意識していました。
 顔面への攻防では、身を守る本能が現れてきます。これが、武器になってくると、攻撃をもらうことが死につながりますから、防衛本能が極度に高まります。
 真剣や刃物に立ち向かうときは、死を覚悟して戦わなければなりません。心理的な状況がまったく変わってきます。百八十度違うといってもよいでしょう。
 こう来たら、こうしよう、と思っていたとしても、いざとなると、恐怖心が先立ちます。刃物を構えられたら、背筋がゾーッとなります。身も凍るような恐怖の中で、ふだんの動きなど、まったくできません。
 下手をしたら死ぬのですから、通常の感覚ではいられません。まさに死の覚悟が必要になります。たいへんな勇気がいるのです。
 武器の練習では、素手の練習と真剣度がまったく違ってきます。一剣必殺なのですから。武器に対して、自分の体を一歩前に進めることは、命を進めるということです。
一つ一つの動作が、命に直結しているのです。
 稽古の中で、緊迫感を持ち、技を掘り下げていくには、武器の練習が必要になります。失敗してもやり直しがきかいない絶体絶命の状況に身を置いて訓練を積むのです。
 ナポレオンやヒトラーがモスクワを攻撃しようとしても、攻略することができなかった理由は、モスクワとの距離にあったといわれます。
 構えでふところを深くすることは、自分の城を守ることにつながります。距離ができるから守ることができるのです。これは、試合用の構えではありません。刃物を相手が構えても、片手を伸ばして相手を一喝できれば、構えになります。私はそれを「白刃の構え」と名づけています。
 
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