つれづれに     2003年3月

 とうとう戦争が始まってしまった。誰でも戦争よりも平和のほうが好きだ。しかし、それでも人間は戦うことを止めない。かつて戦争は男性の好戦性がなさせるもので、女性は戦いを好まない生き物だ、と主張されたこともあった。戦場に赴くのは男性だけで、女性は看護婦など限られた仕事に従事したことも、そうした主張の裏付けだったろう。

 イラクの女性が兵士に志願して、銃を肩に行進する写真が新聞にのっている。無骨で重そうな銃は、女性の手に余りそうである。腕力が決定的な役割をもつ場面で、女性が有能な兵士であるとは、とても考えられない。むしろ非力な女性はチームワークを乱し、男性兵士の足を引っ張る存在だろう。しかし、ハイテク兵器となれば、話はまったく違う。

 女性パイロットがいるように、軍用機の操縦は女性でも充分にできる。また、モニターとキーボードの操作にかけては、女性は男性に勝るとも劣らない。ミサイルの発射は、ボタンを押すだけで良いのだから、屈強な腕力は不要である。現代の戦争において、性別は意味を失った。イラクの女性兵士は、女性だけで隊列を作って行進していたが、アメリカなど先進国の軍隊は男女混合である。

 誰も戦争を好まないにもかかわらず、悲しいことに戦争はなくならない。人間に欲望がある限り、戦争はなくならないだろう。そして、女性が欲望をもった人間であるとすれば、女性も戦争を避けることはないだろう。今後の戦争には、男性の屈強な腕力より、繊細で知的な能力が要求される。フェミニズムが獲得した成果は、女性が有能な兵士であることでもあった。(2003.03.21)

 戦争の足音が聞こえる。現代の戦争は、なんと変質してしまったことか。第一次世界大戦以前の戦さは、生身の肉体がぶつかり合うものだった。そこでは強力な腕力が支配し、戦さとは男性の象徴だった。男性的な腕力の発揮こそが戦いであり、支配階級の男性にとって、戦いは最も名誉ある仕事だった。

 今日の戦争は、かつてのそれより格段に破壊力が勝る。しかし今日、破壊のための引き金は、女性でも引くことができる。女性たちも兵士として、あらゆる分野で従軍している。それはコンピュータ内蔵の兵器が、腕力を無化したからだ。肉体的な腕力を暴力といえば、今日の戦争で使われるのは暴力ではない。繊細な頭脳による殺人と破壊が、今日の戦争である。 (2003.03.07)

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