つれづれに     2003年5月

 中国がいまサーズの蔓延に苦しんでいる。この苦悩は、近代化への陣痛であろう。ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に従えば、西洋諸国の近代化にはプロテスタンティズム、つまりキリスト教の一宗派が大きな力を持ったという。中国の近代化をささえる精神はなんだろうか。

 近代化を成し遂げつつあるのは、今や西洋のみならず、我が国もそしてアジア諸国も近代化に入っている。我が国において近代化をささえた精神を、ベラーや丸山真男は江戸時代に求めるが、当サイトは天皇制だと考えている。そして、アジア諸国のそれは「開発独裁」だったと考えている。

 近代化は地球上のどこでもが成し遂げたのではない。石油によって世界有数の金持ちになった中近東は、もちろん近代化していないし、南米大陸の諸国も近代化に成功しなかった。そして、アフリカ諸国はアジア諸国とともに、バンドン会議に列席したが、いまだ近代化の端緒すら見えていない。

 筆者は、近代化の精神基盤をもとめて、アジア諸国を歩いてきた。おそらく庶民レベルで、人々が論理的な思考を身につけると、近代化が始まるのだと思う。今、アジア諸国の道ばたで、囲碁や将棋に興じる人たちがたくさんいる。彼らが、論理的な思考の実践者であり、本当の意味で近代化を支えるのだろう。その点では中国も例外ではない。

 中国の各地を歩くと、市場の隅で、路上で、店先でと、碁や将棋に興じる人たちを、たくさんみかける。碁や将棋といった論理的な遊びが、近代化をはかる基準だとすると、中国の近代化は今後進むことはあっても、退くことはない。中国が本格的に近代化を初めたら、その影響はきわめて巨大なものとなる。(2003.05.20)

 母親になる環境が世界で最も恵まれているのはスウェーデンで、最も状況が厳しいアフリカの発展途上国との問には、大きな格差があるとの調査結果が、米国の市民団体「セーブ・ザ・チルドレン」から発表されていた。「乳幼児死亡率はノルウェーの千人当たり4人に対し、ニジェールは156人て母親と子供をめぐる南北格差は巨大だ」という。

 この新聞記事は、続けて次のように言う。「過去10年問に戦争や内戦で2百万人以上の子供が死亡、4百万人以上が身体に障害を負った」「戦争や貧困の影響を受けやすい母親と子供の状況を改善するための投資を増やす必要がある」もちろん、出産で死亡することは絶対にあってはならなし、安全な出産環境が整えられべきである。

 しかし、千件の出産で156人の子供が死ぬのは、前近代ではきわめて平均的な数字である。我が国の江戸時代、戦争がなくても、乳幼児死亡率は15〜17%だった。それが150年間の近代化の過程で、4人まで落ちてきたのだ。それは家庭出産から病院出産への流れがあり、公衆衛生観念の普及とともに、乳幼児死亡率の低下は近代社会が誇るべき達成事である。

 前近代では同時に、出産で命を落とす女性も少なくなかった。いまでは出産を命がけとは思わないが、前近代では女性は文字どおり自分の命と引きかえにして、次世代を誕生させた。乳幼児死亡や出産による死亡を、戦争や内乱のせいだととらえるのは、このかぎりでは間違っている。アフリカは近代化しなければ、乳幼児死亡率は低下しない。そして、乳幼児死亡率が低下すると、女性は子供を産まなくなり、少子化が始まる。

 世界中でサーズが蔓延しているが、先進国はペストやコレラで同じような厳しい体験をして、公衆衛生観念と栄養の重要性を確立したのである。中国のしかも都市部で、サーズが猛威をふるっているのは、今中国が近代化の手荒な洗礼を受けていることの別表現である。近代の病気は、都市で猛威をふるった、と歴史は教えている。

 近代は、なじみのない生き方を人間に強制する。農耕社会だったら、痰を吐いても許されたし、立ち小便をしても自然は許容してくれた。しかし、近代の都市では大衆=公衆が登場するので、公衆衛生観念が確立しないと、たちまち病気が蔓延する。つまり並べないと、都市には病気が蔓延する。その意味で近代初期の都市は不健康だったが、現在は都市が田舎より不健康とは限らない。

 イラクの戦争では、前近代と後近代の戦いだったと書いたが、いくら先進国から近代的な兵器を輸入しても、近代が成立していないところでは、初めから戦いにならない。今回もマスコミは、イラクには精鋭部隊がいるといって、それなりに戦うような書き方をしていたが、いったい何時になったら、マスコミは近代を理解するのだろうか。(2003.05.16)

 サダム・フセインが近親者を側近として、重用していたことは有名だが、我々も血縁への信頼をもっている。同族会社というのもあるし、二世政治家の跋扈は枚挙にいとまがない。また地域への結びつきが薄れるなかで、地域を大切にしようという人たちもいる。

 前近代では、農業が主な産業だったから、農業が要求する制限からは逃れようがなかった。農業とは土地への労働だから、人々は家族とともに土地を大切にし、土地から離れることはできなかった。そこでは必然的に地域共同体が形成され、地域に暮らす人々が協力する体制ができあがった。

 しかし、工業社会は地域的なつながりが不要である。工場は農業的な人間的な関係を無視して、経済的な効率だけで設置された。工場は農業社会の人間関係を切断して、近代社会を確立していった。地域的な人間関係は、個人的な人間へと分解されて、人間は裸にされていった。

 農業社会では家が生産組織だったから、家が福祉の機能も担ったが、工業社会では工場が生産組織である。工場=会社が、福祉の機能も担っていった。しかし、情報社会になると、生産の単位は個人である。福祉も個人の段階で確立せざるを得ない。(2003.05.09)

 飢餓や飢饉に対して最も脆弱なのは、近代化が始まって、伝統的な社会保障制度が破壊され途上国であると、センは論じている。しかし、前近代社会にあっては伝統的な保障制度があっても、飢饉はあった。我が国の江戸時代を見れば、飢饉の話には事欠かない。

 飢饉とは食糧の不足ではない。アイルランドが飢饉に見舞われて、人口の3分の1が消滅したときも、イギリスへは食料の輸出が続いていた。近代化の入り口では、猛烈な貧困と貧富の格差に見舞われるが、同時に近代の入り口では人口の爆発が起きる。ひとたび近代が社会基盤を確立すると飢饉は消滅する。

 現在でも近代化が進んでいない国では、猛烈な飢饉に見舞われる。しかし、地球全体が近代化の波に洗われているので、人口爆発は止まりそうにもない。中近東でも人口の急増は著しく、イラクでも人口の増加は急だった。イラクでの飢饉の発生は聞かないが、途上国では乞食も立派な職業である。(2003.05.07)

 イラクでも選挙は実施されていた。サダム・フセインは支配の正当性を、選挙によって獲得していた。しかも、100パーセントの得票率で、彼は支持されていた。ところで、戦前の我が国でも、選挙によって国会議員が選ばれていた。しかし、本当の支配者だった天皇は、選挙の対象ではなかった。

 戦前に天皇を選挙の対象としたら、おそらく100パーセントの支持率だったに違いない。いまでも天皇を信任投票にかければ、女性フェミニストたちの多くも天皇制を支持しているから、おそらく相当な得票率だろう。圧倒的多数で支持されるに違いない。

 選挙によって自国の指導者を選ぶことは、近代になって始まった現象であり、何時の時代にも見られる普遍的なものではない。選挙はきわめて歴史限定的なものである。そのためか、選挙の実態は各国さまざまである。人は社会と敵対しては生きていけないから、選挙にあたっても、世間の大勢に順応する。

 かつてのイラクでサダム・フセインを支持することは、大勢に順応することだったが、イラク人に自由投票せよとの意識改革を要求できただろうか。おそらく無理だったに違いない。近代が浸透していない国で、自由に意見を述べよと言うことは、ある時には死を意味する。近代化と自由の獲得は同じことの裏表だが、平等の獲得は必ずしも近代化と裏表ではない。(2003.05.07) 

 私たちは時間的にも空間的にも、今現在に住んでいる。だから、現在の生活以外をなかなか想像できない。前近代といっても、既に過ぎてしまったように感じ、それがどんな社会であるか実感がわかない。しかも現在の我々は、すべての人間が平等だと教えられているから、不平等な社会ではどんな人間関係があるのかわからない。

 世界を歩くと、様々な文明に出会う。前近代の社会もたくさんあり、文明の違いを教えてくれる。まず前近代では、人々は並んで順番を待つことがない。前近代という不平等社会では、支配者たちには並ばなくても、望みの特権が入手できるから、彼らは並ぶ必要がない。並ばなければならないのは、何の特権もない庶民である。

 前近代では望む人の全員に、行き渡るほどの物資(近代社会からのモノが多い)がない。庶民は少ない物資を競って手に入れる。並んでなどいたら入手できないから、列を作ったりせず、目的物に殺到する。割り込むなどは、朝飯前である。力の強い者や要領のいいものが、幸運にありつけ、弱い者には幸運は巡ってこない。しかし、物資が潤沢になると、順番を待っても自分が入手できる。いや順番に従った方が、確実に入手できるようになる。

 我が国の車の運転手たちも、合流点では少しでも先に入ろうと、かつては我がちに車列に自分の車の鼻先をつっこんだ。しかし、互いに譲り合ったほうが結局は早いことを学び、今では互いに譲り合うようになった。並んで待つことが、結局は有利だと知る。そこで人々はしぜんに整列を始める。これが近代化である。

 並ばない社会では、並ぶ社会とは違ったモラルがある。便宜を図ってもらうために、それを気持ちに表す必要がある。心付けとして、多くはお金が支払われる。仕事を回してもらったら、お礼が必要だし、便宜を図ってもらうには気持ちを包まなければ、希望は実現しない。先進国の人たちは、心付けをワイロ=賄賂と呼んで、犯罪とみなす。しかし、前近代社会ではワイロは社会の潤滑油であり、決して悪いことと見てはいない。

 我が国では、お歳暮やお中元は日ごろの感謝を表現するための、社会の潤滑油でありデパートにはそのための売り場まである。仕事相手へのお中元やお歳暮は、しばしば高額のものが贈られる。しかし近代が成熟した国では、仕事に関連して金品をもらうことは犯罪になりかねない。公私にわたって厳しい倫理規定が適用される。

 近代人が文化を論じるとき、人間は平等ではないと考える文化と、すべての人間は平等だとみなす文化を、等価だと言わざるを得ないから、どうしても論理が破綻する。個々の人間は等価だし平等だが、社会や文化は等価でもなければ、平等でもない。それが近代から見た事実なのだ。(2003.05.05)

 21世紀の世界的争いは、近代化した国と近代化しようとする国の間に起きると考えていたが、それは違っていたようだ。イラクとアメリカが戦争をして判ったことは、前近代国家と後近代国家の戦いだったことだ。

 前近代が近代に追いつこうとして戦争をしたのは、第2次世界大戦だった。ともに近代をにらんだものだったが、今度の戦争が教えるものは、覇権国家は同じ道を歩くことだ。近代は神を殺して、人間を生み出したが、国家はそれほど変わっていない。

 今後もアメリカは世界中で戦争し、自国の利権を確保しようとするだろう。それを止める力は、ヨーロッパ諸国にはもうない。(2003.05.02)

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