つれづれに     2003年4月

 情報社会になって、肉体的な力=暴力の優位性が低下し、女性の社会進出が可能になったとは、本サイトの基本的な主張だが、それでも人間存在の根底を支えるのが肉体であることは変わっていない。人間はものを食べないと生きていけないから、どんな社会になっても農業が最も基本的な産業である。

 情報社会の生産活動において、肉体的な力よりも、頭脳労働が優位してくるのは事実だが、肉体が不要になるということはあり得ない。むしろ、頭脳労働との対比において、肉体的な力が見直され、性別を越えて肉体的なるものへの関心は高まる。「GIジェーン」や「ガールファイト」などアメリカ映画では、女性の肉体的な力=女性の暴力をさかんに描いている。

 最近の東京新聞に次のような記事があった。
<4月23日午前9時ごろ、高尾発小淵沢行き普通電車の車内で、携帯電話の使用をめぐって山梨県大月市の女性(32)と、長野県茅野市の男性(57)が殴り合いになり、電車が15分遅れるトラブルがあった。(中略)男性が「うるさい」と女性の頭を小突いたところ、女性も反撃し、双方が平手打ちや、けりを繰り返したという。運転士が仲裁に入ったが収まらず、駆けつけた上野原署員が2人を電車の外に連れ出した>

 暴力の使用を抑圧されていた女性が、果敢に反撃にでたことは、フェミニズムの主張が浸透していることの現れであり、男女平等にとって実に好ましい現象である。男女の平等は、精神的なものにとどまるはずはない。肉体的な平等をも指向するのは当然だから、女性たちがボクシングを始めたり、男女が混合でサッカーに興じるようになってきた。

 イラクの戦争にアメリカの女性たちが、男性と同じ役割で参加している。思想的な戦いに決着をつけるのは、最後のところでは肉体であり、肉体的な力=暴力である。人間の生存が肉体にある限り、それはどんな時代になっても変わらない。女性たちが暴力を自分のものとして使えるようになるのは、女性の自立にとってきわめて重要なことである。(2003.04.27)

 前近代の国家にあっては、被支配者は支配者と同質の人間とは見なされていないから、国家が戦争するにあたっても、国民に戦争の情報を伝える努力はしない。統治や戦争は支配者の仕事だから、戦争に関する情報も支配者たちのあいだでだけ流布される。反対にいうと、前近代国家では国民に情報を開示する必要がない。情報を開示しない方が、支配はうまくいく。

 近代化した国家では、情報を公開することが、よりよく支配する方法である。それを知っているから、先進国では競って情報公開する。先進国では支配者と被支配者が、同質の人間と見なされているがゆえに、情報は国民全体で共有する。支配者だけが情報を隠匿していると、国力が疲弊し、先進国たる地位が保てない。遅まきながら我が国でも情報公開が始まった。

 戦争に関しても、情報の公開はまったく同様である。アメリカ国民に嘘の情報を流したり、作為的に情報を隠せば、アメリカ政府は戦争が遂行できなくなる。ベトナム戦争で、それが立証されているから、情報の公開はきわめて重要である。だからアメリカ政府は、なかば手の内を敵にさらしながら戦争をする。それに対して、前近代国家は戦争情報を公開できない。情報公開したら戦争が遂行できなくなる。

 戦争という非常時には、戦争の情報の秘密を保つことが重要だと勘違いされるが、決してそんなことはない。作戦上の秘密はあっても、戦争の情報は公開されてこそ、国家の戦闘力は高まる。情報を公開した国家が強国であり、情報閉鎖国が脆弱な前近代国家であるのは、きわめて皮肉である。アメリカとイラクとの戦争から、学ぶことはまだたくさんある。(2003.04.25) 

 主権尊重・内政不干渉は近代国家の約束事だとしても、アメリカは他国の主権を尊重すべきだろう。強大になってしまったアメリカが、イラクを攻撃・占領したことは、やはり大英帝国の所業に重なって見える。1840年頃の大英帝国は本当に強かったらしい。地球の裏側まできて、中国にアヘン戦争をふっかけ、中国を支配下においている。

 大英帝国は中近東からインド・マラッカを経て、中国に達したわけで、中国でだけ残虐な行為をしたわけではない。いまでも、マレーシアには独立前を展示した博物館があるが、そこでは大英帝国の紳士たちが、マレー人たちに如何なる扱いをしたかが記されている。

 インドにおける大英帝国の行いも酷いものだった。「インドの空気」でも考えてみたが、大英帝国の紳士たちは、インド人を初めアジア人を同じ人間として扱おうとしたことは、一度もなかったに違いない。それに比べるとアメリカの占領は、イラク人を同じ人間として扱っているように感じる。しかし、それによって占領が免罪されるわけではない。

 今後アメリカは自分の強大さを、自制して行使するとは考えられない。歴史を振りかえると、覇権国家は自国の利益のために行動している。アメリカも例外ではないだろう。我々はどんな論理を構築しなければならないのか。(2003.04.23)

 サダム・フセインの銅像を倒したのは、CIAによるヤラセだったと、マスコミは憤っている。しかし、世論操作は、戦争の常套手段である。どんな情報にも真偽があり、それを精確に見抜くのが、情報の受け手の仕事だろう。表面的な動向しか見ないから、情報操作に振りまわされる。

 アメリカを非難したり、単純な反戦を訴えたりすることが、有益なのではない。情報革命をくぐったアメリカが、圧倒的な力(経済力を背景とした総合的な力)を持ってしまった今、我々はどのようにアメリカと対峙できるかが問われている。かつての大英帝国のように、今後のアメリカは文化的にも思想的にも優位に立つだろう。そのとき、我々は何を対置するのだろう。

 絶対的非暴力の無抵抗主義は、対アメリカに対しては有効だと思うが、アメリカ以外には通用しないだろう。(2003.04.21)

 途上国では近代化が進んでいない。近代化が進んでいないと言うのは、工業生産が未熟なことだけを意味するのではない。人間関係もまた前近代的である。驚くかも知れないが、前近代的な人間関係では、社会を支配する人間と支配される人間は、まったく別種の生き物だと見なされている。血筋や家柄が、人間の価値を決める。それが前近代的な人間関係である。

 百姓に生まれたら、どんなに優れた能力をもっていても、一生にわたって百姓のままである。義務教育など存在しないから、人間は生まれつき不平等だと見なされている。もちろん選挙によって自分たちの支配者を選ぶといった意見はない。支配者は、支配者の階級に生まれた者の中から選ばれる。被支配者が支配者になることは、武力によって体制を打倒しない限り、絶対にあり得ない。

 近代化された国では、犯罪を犯して刑務所に収容されると、誰でも同じ扱いを受ける。支配階級の人間であっても、収用される刑務所は同じである。我が国でも、総理大臣だった田中角栄氏も、一般の囚人と同じ刑務所に収監された。しかし、前近代にあっては様子はまったく違う。犯罪を犯した武士は、一般の牢獄に収監されず、他の家にその身をあずけられた。今日でも前近代的な国では、支配階級の人間が収監される刑務所は、一般庶民のとは別である。

 現代社会では、世界中で人間が同じように扱われていると思いがちだが、近代化が進んでいない国では、すべての人間が平等だという人権なる概念はない。イスラムの支配する中近東では、族長の末裔のわずかな家族たちが、支配階級を構成して特権的な生活を送っている。石油から生じた莫大な富は、わずかな家族たちが自分たちのために使っている。

 人間は誰でも平等であるという観念は、きわめて最近生まれたもので、いまでも世界中で通用する考え方ではない。ところで、我が国の天皇には裁判権が及ばない、とされているのを知っているだろうか。天皇は脱税をしても、ものを盗んでも、買い物をしてお金を支払わなくても、いっさい罪に問われることはない。こうした天皇と庶民を、同じ人間という言葉で、一緒にくくって良いのだろうか。

 「生まれ」による異なった扱いを、我が国では認めている。フェミニズムは女性も男性も、人間として平等だといったが、天皇と庶民は人間として平等なのだろうか。サダム・フセインを独裁者と考え、独裁政権が崩壊したと見ると、ことの真相を見失う。アメリカとイラクの戦争は、近代と前近代の割れ目を、白日の下にさらしている。(2003.04.18)

 かつて7つの海を支配した大英帝国という国があった。大英帝国はインドをはじめ世界中に植民地を作り、その覇権をほしいままにした。彼らが有色人種を見る目は、まるで動物を見るようであり、有色人種をとうてい人間とは扱わなかった。イギリス人女性が、日本人男性に自分の裸の姿を見られても、まったく羞恥心を感じなかったとは、会田雄次氏が「アーロン収容所」に書いているとおりである。

 かつての大英帝国は、それはそれは強大な軍事力を誇った。もちろん軍事力は経済力に支えられるから、産業革命がいかに莫大な利益をもたらしたかが分かる。そう考えてみると、情報社会化つまり情報革命を成し遂げたアメリカが、独占的な利益を獲得していくことも簡単に想像できる。農業革命、産業革命、情報革命とすすんだ人類は、今後も情報社会化をやめないだろう。

 情報社会化は、その端緒についたばかりであるにもかかわらず、すでにアメリカの強大さは際だってきた。あまりの強大さに、他の国々は反発を覚えるだろうが、大英帝国に対してそうだったように、アメリカに逆らうことはできないだろう。アメリカの勝ち方を見ていると、今後はしばらくアメリカの世界支配が続く、と思われる。それに対して、我々はどんな価値観を対峙していけるのだろうか。(2003.04.11)

 イスラムでは未だに神が生きており、男性は父として神の代理者である。神も父も殺されていない。イスラム諸国における、女性の社会的な地位はないに等しい。そして、石油の利権を握った一握りの家族たちが、特権階級として君臨している。

 現在のアラブ諸国は、石油以外に近代的な産業がないに等しく、自国で工業生産が可能であることを知らない。社会主義的な労働観が行きわたり、自前の工業が経済を支えるとは考えていない。しかし、日本人がアメリカから自由を学んだように、イラク人が自由を知ると工業化にも着手するだろう。工業化とは、同時に平等の体得でもある。自由と平等を教育されると、自国の神殺しや父殺しに走るだろう。

 イラクでは短期的には、アメリカ=近代に対する反発が続発するだろうが、工業化が始まると国民はプロテストし始めるに違いない。イスラム諸国で近代化が始まれば、中近東は不安定になり、戦火が絶えなくなるだろう。しかし、我が国がそうだったように、庶民や女性の社会的な発言力が増大するだろう。

 イスラム諸国が石油にたよる限り、神の支配は続き、庶民や女性は抑圧されたままだろう。しかし、イラクが工業化を目指したときには、事情はまったく違った様相を見せる。太平洋戦争に破れる前に鬼畜米英を叫んだ日本男児が、戦後の50年間にわたりアメリカに対して、どのような態度を取ってきたかを振り返れば、イスラムの反米感情も同様に考えることができる。(2003.04.11)

 アメリカ軍がイラクを占領していく様子は、1948年に我が国が占領されたのと、重なって見えて仕方なかった。本土決戦を叫んでいながら、我が国の人たちも為すすべもなく、アメリカ軍に我が領土を明け渡していった。しかも、当時の日本共産党は、アメリカ軍を解放軍とよんだ。我が国への占領も、完璧なできだったと、後世の戦史家はいう。

 第2次大戦後、旧植民地の独立戦争やベトナム戦争があり、途上国が近代国家に勝てると思われた時期もあった。ゲリラやレジスタンスが有効だと思われたりした。しかし、我が国やイラクの占領のされ方を見ていると、独裁者に率いられた前近代国家の負け方に共通性を感じる。我が国でも、天皇の聖戦といって八紘一宇の精神が謳われたが、完膚無きまでの敗北だったし、イラクでもフセインに忠誠を誓う精鋭部隊と、精神性が強調されたが、見事な完敗ぶりである。

 近代国家は国民に主権があり、国民が主人公である。近代国家では領土を守るという意識は、直接に国家意識とつながるが、前近代国家にあっては主権は国民にない。君主主権の国の軍隊は、自国を守るのではなく、君主を守るのだから徹底抗戦に至る心理的な契機がない。ましてや天皇やフセインのような専制君主が支配していれば、人々は自己の利益の限りでしか国家に協力はしない。
 
 今回もアメリカ軍の圧倒的な軍事力を云々する声が多いが、戦争は国家間の政治の継続であり、軍事力だけが雌雄を決するのではない。今回の戦争から導かれる結論の一つは、主権が国民にない前近代国家と、主権在民の近代国家が戦ったら、近代国家が必ず勝つということだ。国民の全員が主権者であるという近代の政治制度は、きわめて効率が悪いように感じるが、おそらく歴史上最も強力な国家形態だろう。(2003.04.10)

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