つれづれに     2003年7月

 「女性が結婚退職した責任は男性にない」との判決が、17日東京地裁(綱島公彦裁判官)であった。2人は同じ支店に勤める同僚で、2000年6月に婚約した。結婚式の日取りを02年4月に決め、女性は01年末で退職。ところが、結婚式の招待状や新婚旅行の日程をめぐってけんかになり、挙式2カ月前に男性から婚約解消を申し出た。婚約解消の慰謝料は認定されたが、男性に退職の責任は認めなかった。
 
 「既に結婚退職は社会通念上、当然のことではなくなっている」と指摘。「退職は女性が自己の生き方を選択した結果。退職による減収は婚姻が成就しなかったことで生じたわけでない」と認めなかった。さらに「2人の年齢や社会経験では無理からぬことだが、事を急ぎ過ぎた。婚約解消に至った責任はもっぱら男性にあるが、(破綻した)結果には女性にも責任がある」と意見を付けた(東京新聞、7月18日)、という記事があった。

 女性が結婚に経済的な期待をすること自体がおかしい。結婚と退社(=無職化)はまったく別のことである。妥当な判決である。いよいよ、女性も自分で稼ぐ時代になってきた。(2000.07.20)

 「家族、積みすぎた方舟」の訳者である穐田信子氏から、ファインマンのいう母子関係とは「 」付きであることを見落としている、というご指摘がありました。しかし、本書を読む限り、「 」付きと見なすことは困難です。氏が主張されるように、「父と子でもよく、〜広くケアする関係をさして使われています」と読むことは、もっと困難です。

 ファインマン自身、「核となる単位を母子と定義する」P13と明言しています。また別のところでは、父子ではいけないのかという設定に、否定的な返事をしています。彼女はたしかにケアの単位ともいっています。しかし、彼女にとっては、男性社会が女性にケアを押しつけると考えるので、母子という生理的なものに拘泥する論理必然性があります。

 女性という性にこだわって、彼女の論は成り立っています。母子関係が「 」付きのものであるなら、無性化した単家族といった展開が見えるはずです。訳者からご指摘を受けましたが、書評を訂正する必要を感じませんでした。付言すると、本書は<家族に関する一般理論>と、<家族に関する政策論>を同位相で論じるという、決定的な欠陥があります。

 本書に関しては、Eleanor Willemsenの詳細な書評がありますが、当サイトは彼とは立場が違います。また、本書に関連したMichael Selmiの文章によると、アメリカにおけるフルタイムで働く女性の収入は、対男性比(男性を100として)で下記の通りだと言います。
20〜24歳 89.4%
25〜34歳 83.0%
35〜44歳 73.5%
45〜54歳 70.5%
55〜64歳 68.2%
 どんな運動の果実も、遅くきた者が収穫する。フェミニズムも例外ではない。(2003.07.18)

 鴻池祥肇・防災担当相は11日午前の記者会見で、長崎市の種元駿ちゃん(四つ)誘拐殺人事件について、「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と述べた。<7月11日産経新聞より>

 親を市中引き回しの上、打ち首という発言は、時代がまったく判っていない酷い発言である。鴻池氏は引責辞任する様子もない。我が国の近代が、いかに遅れいているかの証明である。犯罪の責任は個人が負うのであって、親や血縁親戚が負うものではない。親への責任追及は、江戸時代の5人組制度とまるで変わらない。

 子供が個人として自立を迫られているので、こうした事件を起こすのであり、女性の犯罪増加と同じ質の問題である。自立とは歓迎されることばかりではなく、反社会的な現象も増えることである。それでも子供や女性の自立を支持し、個人として存在させるためには、如何にすべきかを考える。それが要求されている。(2003.07.14)

 子供による殺人事件が起きると、「今時の子供は……」といった新聞論調がわき上がる。マスコミをはじめ、世の大人たちは子供を否定的に見る。理解できない子供たちの登場に、規制を強めようといった議論が沸騰するだろう。

 近代の呪縛がほどけはじめ、子供に限らず、年寄りも人を殺すことが多くなった。本来なら長い人生をすごし、人間的な成長を遂げたと思われる年寄りたちは、人殺しなどしないはずである。しかし、年寄りたちは、最近の40年で10倍も殺人事件をおこすようになった。子供の殺人は派手なニュースになるが、年寄りがおこす殺人事件は大きくは取り上げられない。
 
 近代になって学校という教育工場ができたので、子供という特殊な時代ができ、いつの間にか子供は汚れなき者とされるようになった。しかし、女性も職場で働けば、男性と同様に「オヤジ」になるように、子供も大人と同じ人間である。むしろ、残酷さは子供の専売かも知れない。

 女性の自立によって幕を閉じようとしている近代は、すべての人間を個人へと分解する。それは子供だろうと、年寄りだろうと、女性だろうと、例外を許さない。子供に結婚の自由も選挙権も与えずに、刑罰だけは大人と同じでは、どう考えても理屈が合わない。(2003.07.09) 

 家族について、当サイトは「単家族」化を論じて飽きないが、東京新聞の「本音のコラム」では、斎藤学氏が、「シングルマザー」6月6日を書いて同じ趣旨の論を展開している。また氏は、6月27日には「戸籍法撤廃を」と主張され、論理をより進めている。

 かつて日経新聞に板東真理子氏が、「ポスト核家族、個が選択」を書かれたときには、単家族論と瓜二つでひどく驚いたが、斎藤学氏の論はあきらかに氏独自の視点から展開されている。斎藤氏のように精神分析の現場にいる人には、現代の家族を切開する論理へと必然的にたどり着いたのだろう。

 体系だった理論を提出することは、当サイトの使命だと考えている。きちんとした理論は、現場の人たちにも、進むべき方向性を明示してくれるだろう。(2003.07.03)

 近代で何と言っても変わったのは、子供たちであろう。学校ができてしまったので、子供たちは遊ぶことを禁止され、むりやり昼間から部屋に閉じこめられた。学校は子供たちの自由を拘束し、のびのびとした自然の息吹を窒息させた。学校は、<子供>という特殊な概念を生み出した。

 <子供>がまだ子供であった頃、身体の成長に応じて生活が成り立っていた。だから、精通があり生理が始まる10歳をすぎる頃には、子供たちは男女の営みを始めた。右の写真は、最近の東京新聞に掲載された15歳の花嫁である。

 記事は次のように続いている。「ルーマニアでは16歳未満の婚姻を認めていないが、慣習を守り続けるロム人(ジプシー)は例外。12歳の花嫁もいる」と書かれている。現在の我が国では、13歳未満の女性との性交は、同意があっても犯罪である。映画「アンダー サスピション」が描くように、年少者への性的対応は最も恥ずべき犯罪である。

 「15でねえやは嫁に行き」と歌われていることからも判るように、我が国でもかつては10代で結婚した。学校ができて婚期が遅れても、人間の発達状態が変わるわけではない。にもかかわらず、子供たちの性行動は厳しく規制され、性的な欲望は完全に抑え込まれてしまった。ここでフロイトが登場するのは、自然である。

 学校は労働から子供たちを切り離し、知識を詰め込んだ。そして、学校を卒業した子供たちは、近代の申し子として、社会変革に取りくんだ。その結果、識字率が上がり、乳幼児死亡率が下がり、寿命が延び、そして少子化がやってきた。(2003.07.01)

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