つれづれに     2003年9月

 大人世界での生涯学習の必要性が、子供の存在形態に影響を及ぼす。大人が労働と学習を同時に行えば、子供にも労働と学習の両立が否定されるはずはない。男性社会の変化が、女性の台頭を呼んだように、大人社会の変化は子供の台頭を呼ぶ。

 子供に労働が可能か。歴史を振り返れば、子供も働き手だったから、充分に可能だと考える。子供に労働が不可能だと考える人は、子供が稼ぎ始めると、大人のプライドがなくなる、大人であることの理由が消滅することを恐れるからである。子供が大人より稼いだら、大人は子供に説教できなくなると考えている。

 稼ぐことにおいて、大人絶対的に子供より優れている。大人たちはそう考えたいのである。しかし、女性が充分な働き手であったように、子供も充分な労働者たり得る。子供が労働者になりえないのは、大人が子供を学校に縛り付けているからである。

 株の相場予想では、子供たちはたぐいまれな才能を発揮するし、コンピューターのプログラミングでは圧倒的な力量を示す。まだ子供は、自分の能力を換金する方法を知らないから、子供の稼ぎは小さい。しかし、時間を売るサラリーマンのような労働形態が崩れているから、子供も学校へ行きながら稼ぐようになるだろう。

 学校へ行くことと稼ぐことが、両立するようになる日は近い。そこでは現在の労働基準法が、想定している働き方以外の働き方が主流になるだろう。(2003.09.19)

 女性台頭の真の原因は、男性社会において肉体的な腕力の強さが無化された結果だとは、何度も書いてきた。新たな勢力の台頭は、それ自身の努力もさることながら、既存の社会の変化が、新たな者を必要としているからだ。そう考えてみると、子供の台頭もよくわかる。

 大人社会において、加齢によって体得した知恵の役割が、役に立たなくなってきた。だから、大人たちがいつでも学習しなければ、生き延びることができなくなった。学習と労働が同時に行われるようになった。子供は学習だけする存在だったが、大人社会が変わったせいで、子供の存在意義も変わって生きた。

 子供は学習だけすればよかった。学習と労働は、別次元のもので、同時にすることではなかった。しかし、大人社会で、学習と労働の同時存在でなければ、やっていけないとなると、子供の学習特権は喪失する。大人と子供を切り分けた区別が機能しなくなる。まだ、子供が労働力としては認識されていない。

 女性も最初は男性と同じとは認識されていなかった。女性にどんな働きができると、男性や専業主婦たちは考えていた。しかし、今や女性が労働戦力として、男性に悖ると考える者はいない。幼体の間は労働力たり得ないだろう。成体になれば、子供と言っても充分に稼げることが判明するだろう。

 幼体を離れ、子供と言われる成体の能力は、おそらく今考えられているより、はるかに大きいに違いない。それを女性の台頭の歴史から学ぶことができる。子供を保護の対象と見ると、子供の能力は見えないが、子供を可能性とみると事情は変わってくる。(2003.09.15)

 かつては幼体から成体になると、ただちに社会に組み込まれ、労働力となった。そのため、今日言うような子供なる概念はなかった。それはアリエスが「<子供>の誕生」で書いている。幼体と成体の間に、労働とは無縁な子供なる概念が挟み込まれ、子供は保護の対象になっていった。
 
 この過程は、女性についても同じことが言える。かつて田や畑で働いた女性は労働者だったから、男性に拮抗し得た。しかし、女性が専業主婦となって生産労働の現場から身を引くにつれて、性差と性別が大きく乖離していきた。そして、女性は半人前として保護の対象になった。

 両者ともに、労働の場から離れることによって、保護されると同時に差別されていった。今女性が、差別解消を訴えて、社会的に台頭してきたが、それは専業主婦の徹底化ではなく、社会的な労働者になるという形で実現された。経済力の獲得が、女性の自立と平行現象である。

 男性が女性を養うのではなく、女性自らの労働によって生活する。つまり、女性の自身の生産労働が女性の自立を支えている。子供の動向にも、同じような動きがあるだろうか。若年者の起業などが、その嚆矢であろう。しかし、まだそれは一般的ではない。

 といいつつ、大人たちが生涯学習を訴え始めているのは、女性台頭の初期によく似ている。女性台頭は男性社会が将来したと、当サイトはいうが、大人の社会で、大人が成体であるだけではやっていけなくなった。その結果として、学習と労働の合一を目指し始めた。

 幼体と成体の間にある子供なる期間は、学校へ行くがゆえに労働をしなくても済む期間である。子供は学習だけすればいい。しかし、成人の社会で学習と労働が一致し始めていることは、早晩子供社会にも、その影響が表れるだろう。つまり、子供における学習と労働の分離が終わるということだ。ここで子供なる概念は、成体に吸収されていくに違いない。(2003.09.09)

 繁殖力を持った人間を社会的存在として見たときに「大人」と呼び、繁殖力を備えた人間を「成体」と呼ぼう。そして、繁殖力がない人間は「幼体」と呼ぶ。大人とは選挙権をもった人間であることが多いが、子供は選挙権がない。しかし、生き物としての人間としては、大人と子供の間に違いはない。

 男女の社会的な違いを、性差と呼び、男性(=man)と女性(=woman)と称する。生物的な違いを性別というが、これにはオス(=male)とメス(=female)という言葉が当てられる。性差と性別の次元の違いを認識したのが、フェミニズムだとは何度も言ってきた。

 大人と子供の区別は、男女以上に難しい。しかし、区別しないことには、話が進まない。そこで、性差に対応する区別を、大人と子供と称し、性別に対応する区別を「成体」と「幼体」と称することにする。前者は年差で、後者は年別といったところだろうか。

 年差は「大人」と「子供」という区別をし、年別では「成体」と「幼体」という区別をすることにする。成体は精通もしくは生理がある年齢以上だから、おおむね小学高学年から中学生位以上の年齢である。それにたいして、「幼体」は精通や生理がまだない年齢以下である。

 この区別をもって、子供の問題を考えていこう。(2003.09.05) 

 昔から男性は自立していたのか。男性であれば自立していたわけではない。多くの男性だって、ついしばらく前までは、自立していなかった。支配階級に属するごく一部の男性だけが、自立していた。多くの庶民は、自分の命すら自分のものではなかった。

 支配階級の男性だけが、合戦に参加し、領地を治めた。庶民は、戦いに参加する必要もなかったし、税金を納める必要もなかった。武士たちが駆け回るのを見ながら、庶民は田や畑で働いていた。しかも年貢を払ったのは上層農民だけで、水飲み百姓は無税だった。

 今日では、100万円以上の収入がある者は、男女を問わずに課税される。また消費税は、どんな貧乏人からでも徴収される。今の日本では徴兵制がないが、近代国家には徴兵制が導入され、世界大戦として闘われたのは記憶に新しい。近代では貧乏人も、税を徴収され、(男性は)徴兵されたのだ。

 結局、自立とは自己決定権があるか否かである。その意味では、近代に入るまで、多くの男性も人権など確立されてはいなかった。実は支配者たちも、神様のお告げには従ったので、前近代では誰も自立などしていなかったのだ。

 近代になるときに、神と結託していた支配者を殺して、男性たちが市民として自立した。ここで初めて人権なるものが誕生した。このときには、機械が未発達だったから肉体労働の重要性が高かったし、経験からくる知恵が重要だったので年齢秩序は大切にされた。

 機械の発達=コンピューターの普及によって、肉体が無化されたので、女性の自立が始まったのだし、経験則に基づく知恵が重要度を下げたので、年齢秩序が崩壊し、子供の自立が始まったのだ。

  男性自立で近代の開始→女性自立で近代の終焉→子供の自立によって後近代開始

 男性が先に自立したと言っても、男性の自立といっても、たかだか300〜400年前のことに過ぎない。人類の歴史から見れば、人権などが語られるようになったのは、ごくごく本当にごく最近のことだ。しかも、人権が正しいものとして語られるのは、地球上でも限られた先進国だけだ。(2003.09.03)

 女性が男性の所有物であった時代、女性は安全な保護下にいた。女性は男性の財産だったから、女性に手出しをすることは、男性の財産を傷つけることだった。女性を強姦することは、男性の財産を強姦することだった。だから、男性たちは女性を保護した。
 
 女性の自立は、男女が等価になることだから、女性への保護が消滅した。女性は男性の競争相手となった。子供も劣位にあると見なされているから、保護されている。しかし、年齢秩序の崩壊を敏感に感じ取っている子供は、保護の枠をうち破りたくて仕方ない。「親を殺した子供たち」は、大人と同じ地平で、競争しようとしている。

 子供だって1人前の人間である。女性が差別解消を叫んだように、子供も差別解消を訴えている。それが同時に保護の解消でもある。大人たちはまだ子供を保護の対象と見なしている。しかし、保護と差別は同じ楯の裏表である。「ネクスト」等を見るまでもなく、10代の子供たちの活躍は、過激な青鞜の女性たちの活動とまったく変わりない。(2003.09.02)

 子供の問題は、女性の問題とよく似ている。女性が社会的な反抗を始めたのは、明治に遡る。当時の女性の反抗は、ひんしゅくを持ってみられ、蔑まれてさえいた。しかし、後になって、青鞜といって見直されたのは周知の通りだが、どんな運動も最初は蔑視される。ウーマンリブだって、ブラジャーを燃やしたりした当時は、興味本位にあつかわれ蔑まされた。

 我が国では、ブラジャーを燃やすことはなかったが、中ピ連が蔑視された。あれから40年、女性の自立は普通のことになった。同時代だから気がつかないが、おそらく子供の自立も同じ道をたどっているのだろう。青鞜の女性たちを理解できなかったように、少年Aの殺人や12歳の殺人など、同時代人には理解不能である。子供といえども、殺人者はもちろん蔑視される。

 明治の頃、女性が酒場に出入りすることは、蔑視されて当然だった。商売女と堅気の世界が画然と別れていた時代に、堅気の女性が酒場に出入りしたら、すでに女性ではなかった。公衆便所と揶揄された中ピ連と同じ非難の目が、青鞜の女性たちにも向けられたのである。

 子供の殺人という現象に目を奪われて、ただ否定的に子供を見るのは、時代を見ない仕儀である。時代の価値に逆らうのは、新たな運動が胎動しているからであり、子供たちは自立を目指してうごめいている。肉体的な力が無化されたから女性の台頭があり、年齢秩序が崩壊しているから子供の台頭がある。保護とは差別の別名である。(2003.09.01) 

 子供の問題は、女性の問題とよく似ている。今では、誰でも女性も男性と同じ社会的な能力があると考える。だから、女性にも選挙権があって当然だし、女性が社会で働くことに、何のためらいもない。しかし、ついしばらく前までは、女性は男性に比べると、社会的に劣った生き物だとされ、選挙権はもちろん財産権すらなかった。

 もっと時代を遡れば、女性は男性の財産であり、女性に男性と同質の人権など考えられもしなかった。もちろん、結婚も男性が決めたし、女性は自分の財産を持つことができなかった。それは、田川建三氏の「イエスという男」を読むまでもない。我が国では、太平洋戦争が終わるまで、イエスの時代と同じだった。

 支配の思想は、支配される者もそれを共有しなければ、支配は成立しない。この時代、女性の自立を訴えた女性もいた。しかし、それは圧倒的な少数で、ほとんどの女性が女性は社会的な劣者であると信じていた。支配の思想を受け入れた方が、被支配者も利益が大きい。だから、女性たちは男性の3歩後ろを歩いていた。

 戦前は女性が女性を社会的な劣者だと考えていたが、敗戦により女性の地位は飛躍的に向上した。これを子供について考えてみると、子供は大人に比べて未成熟だから、保護しなければならない。未成熟な人間には、選挙権を与えることはできなし、財産権も制限しなければならない。多くの人がそう考えているだろう。

 かつて女性も、男性に比べて劣者=未熟と考えられたから、差別されたのだが、差別は保護でもある。保護と差別は、同じことの裏表である。戦前、女性を1人前と扱わないことによって、社会の荒波から女性を守った。今、14歳以下の子供は、殺人を犯しても罪を問われない。

 子供は未成熟だから犯罪を犯しても、問責されない。それと同じ構造が、戦前の女性差別だった。選挙権がなければ、政治的な意思表示に間違うわけはない。そういった意味では、戦争への責任は、男性が負うべきである。今では、女性への保護はほとんどなくなった。今後ますます減っていくだろう。

 子供は未だに、保護の対象である。大人に比べて劣者だから、保護する必要があると見なされている。しかし、肉体労働においては、10代も後半になれば、大人とほとんど遜色ない。かつての若者は、10代の半ばで、男性は合戦に参加し、女性は嫁いでいった。じつは今子供と呼んでいる人間は、充分に1人前の社会的人間だったのである。(2003.09.01) 

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