つれづれに     2003年10月

 選挙年齢の引き下げを、と主張しているNPOがある。大学生ら作られた「Rights(ライツ)」と呼ばれるグループである。10月15日に、渋谷で公開討論会を開いたという。2人の国会議員が出席して、約60人くらいが集まったという。(東京新聞による)

 責任や義務は権利と表裏一体である。義務だけ押しつけて、権利を与えないことは、許されることではない。成体化した子供たちには、すでに大人と同じ力がある。女性たちが自分たちの運動を、フェミニズムという思想として提出し、存在証明をうち立てたように、成体化した子供たちも、自分たちの運動と同時に、思想を確立すべきだろう。(2003.10.24)

             <Rightsの六本木オフィス>は下記の通り
 〒106-0032  東京都港区六本木4-7-14 みなとNPOハウス4F
E-Mail: info@rights.or.jp TEL&FAX: 03-3796-0822

 大家族が福祉の機能を担っていた時代、年老いた親の面倒は、当然に子供が見た。この時代、養老院などに入れようものなら、親不孝者という非難が浴びせられた。しかし、今では親たちは子供の頼りになろうとはしないし、施設にはいることを躊躇わなくなった。

 成体化した子供の教育費を、社会に負担させることも、同様に非難されるだろう。それまで家族が担ってきた機能を社会化するときは、どんな変化でも非難される。しかし、大家族は大地と接していたがゆえに、老人福祉の機能を持てたのだし、核家族は物の生産と直結していたので、成体化した子供の教育機能のをもてたのである。

 情報社会は、情報という不安定なものを生産対象としているので、雇用が安定しない。職から職へと、転職するのは不可避である。しかも、この間に常なる自己教育が必要である。成人にも生涯にわたっての学習が不可欠である。成人たちが教育という自己投資を避けることはできない。

 成体化した子供の教育費まで、大人たちが個人的に負担はできなくなる。と同時に、成体化した子供の教育費を、親が出せば子供の進路を偏向させてしまう。子供の自立心を奪ってしまう。女性が自立できたように、成体化した子供は、充分に自立する力がある。(2003.10.15)

 大家族だった時代、家族が福祉の機能を担っていた。だから、失業保険もなかったし、老齢年金もなかった。我が国で、近代的な社会保障が整備されたのは、戦後である。最近では介護保険も制定された。いずれも家族が高齢者の保障機能を失ったので、必要になったことによる。

 現在、子供の教育費は、親つまり家族の負担である。核家族が子育て機能を全うしているから、国は親に負担させて済ますことができる。しかし、大家族から核家族になって、福祉が社会化されたように、核家族から単家族になるにしたがって、教育が社会化されなければ家族は立ち行かなくなる。

 情報社会での親とは、幼体期の子育てだけ行えばいい。どんなに社会が変わっても、子供を産むことは具体的な男女にしかできない。子供を産み幼体期を育てることだけが、最後に残る成人の仕事である。情報社会では、大人も生涯にわたり自己を教育し続けなければならない。ここでは大人も成体化した子供も同等である。

 成体化した子供の教育は、大人の手に余る。成体化した子供は、自分で自分を教育していく。成体化した子供が、自己教育できるようなシステムが用意されなければならない。このシステムにはまだ名前がない。大家族の時代には、福祉という言葉もなかった。とすれば、核家族の時代には、成体化した子供の教育システムを表す言葉はないのが当然である。

 成体化した子供の教育システムを、どうのように創り上げるか。今後の我が国では、不可欠の作業だろう。(2003.10.14) 

 当サイトは政策的な話よりも、原理論的な指向をする。子供の問題は、例外である。

 現在の我が国では、子供の学ぶ費用は、親の負担であることが多い。お金を出せば、口も出したくなるのが人情である。しかし、成体化した子供に親が口出しすることは、自立の妨げになりやすい。事実、教育費の負担に関しては、親はお金だけ出して何の見返りもない。子育てとは可愛さが見返りだというのは、成体化する前の子供の話である。

 生涯学習の費用は、誰もが本人負担だと考える。とすれば、成体化した子供の学ぶ費用は、本人や社会が負担すると考えても不思議ではない。今後、学ぶ期間が伸びることはあっても、短くなることはない。学ぶ費用を親に負担させ続けることは不可能である。成体化した子供への負担から、親は解放されても良い。

 成体化した子供の学ぶ費用は、奨学金といったかたちで、社会が用意すべきである。返済不要のものがあっても良いし、返済必要なものもあって良い。とにかく、学ぶことによって実益を受けるのは、本人と社会であるとすれば、本人と社会がその費用を負担すべきである。

 企業は学んだ人間を使って、利潤をあげるのだから、企業は学ぶ制度に費用を投じるべきだ。企業内に学校を作っても良いし、奨学金を提供しても良い。将来を担う人間への投資が、もっとも見返りが大きい投資である。(2003.10.10) 

 「小学校から起業家教育」日経10.3とか、「小中高生に起業のススメ」東京10.7といった新聞記事がめだつ。子供のうちから自立の精神を植え付けようと言うことだろうか。自立の拠点は、なんといっても経済力である。

 サラリーマンとして雇用される形態では、成体化した子供には学業と両立し得ない。一日の大部分を会社に捧げる労働のあり方は、工業社会に特有のものであり、働く方法は雇用されるだけではない。子供たちが稼ぐ術を見つけるのも、そんなに時間はかからないだろう。

 女性を保護した結果が、専業主婦という社会的寄生虫の増殖を許してしまった。この失敗を繰り返さないために、成体化した子供には、可能性を発見したい。大人が保護という美名で、子供の可能性を啄んでしまわないことを祈るのみである。(2003.10.09)

 かつては人口ピラミッドという言葉が、人口の分布状態を良く表現した。つまり、若者たちはたくさんいて、高齢者が少なかった。生きること自体が困難だった時代、高齢まで生きることは、それ自体が難しかった。天寿を全うする前に、多くの人が死んだのである。

 子供が多くて高齢者が少なかった戦前は、子供に選挙権を与えると高齢者が多数決で負ける、と考えても不思議ではない。選挙は1人1票だから、人数の多い方が有利である。人口の多い若者と、高齢者の利害が対立したときは、高齢者に不利になる。そして、加齢による知恵が大切だった戦前は、若者に選挙権を与えなかったのも理解できる。

 いまや人口の20%が高齢者になろうとしている。年齢別人口比率は、ピラミッド型ではない。若者と高齢者の人口比は逆転しつつある。成体化した子供たちに選挙権を与えても、数において高齢者が不利と言うことはない。今では多数決なら年寄りのほうが有利である。

 情報社会になると、加齢による知恵の重要度が低下してくる。成体化した子供たちの頭脳の働きが、社会的にきわめて重要になってくる。男女間では頭脳に優劣はないだろうが、若年者と高齢者のあいだには、頭脳の質的な違いがある。もちろん、情報社会に大切なのは、若者の頭脳である。

 人口においてまさる高齢者は、成体化した子供に選挙権を与え、彼等の頭脳を取り込むべきだ。責任は権利と一体であり、成体化した子供に責任だけを要求はできない。少数化しつつある若者の意見は、自分たちに主張させたほうが良い。成体化した子供たちに、選挙権を与えるべきである。(2003.10.06) 

 若年者の過激な犯罪と言った報道があるたびに、若者への取り締まりを強化せよという声があがる。あたかも若者たちだけが、凶悪犯罪に走っているような風潮だが、毎度いうように高齢者の犯罪増加率のほうが高いのである。

 かつて農業が主流だった時代、よその畑に行って西瓜を盗んだり、柿の実を採って叱られた経験は誰にでもあった。しかし、当時それが窃盗だといって、警察沙汰にしようとした大人はいなかった。また、夜這っていった若者が、夜這いに失敗して、娘の親にきつく絞られたりしたが、強姦事件として裁判沙汰にもならなかった。

 大人たちは自分の若かった時代を忘れ、若者を非難したがる。「今の若者は〜」と非難する前に、自分の若かった時代を振りかえるべきだ。むしろ今の若者は、保護という美名のもとで、自立心を奪われ、人間としての権利を剥奪さえされている。

 選挙権などなかった時代、大人も成体化した子供も、働きに応じて発言権があった。 瀬川清子氏の「若者と娘をめぐる民俗」によれば、農耕社会は<13歳もしくは15歳の成人後から、50歳位までの生産年齢の人間によって、社会は維持されてた>という。13歳もしくは15歳以上とは、まさに成体化した子供である。

 大人たちは、大人であること自体が子供を抑圧する存在である、ことに気づくべきである。支配者は誰も自分が支配しているとは言いたがらない。男性も女性を支配しているとは言わない。しかし、支配されていた女性にとって、この世はまさに男性支配の社会である。

 成体化した子供を保護の対象と見るのは、子供には鬱陶しいばかりである。成体化した子供を自分と横並びと考えて初めて、大人たちが解放される。支配は支配者の精神をも歪めるものだ。(2003.10.04)

 当サイトは、単家族になったほうが良いとか、女性や子供が自立したほうが良い、と言っているわけではない。時代が変わらないなら、のんびり生きたいと誰よりも思っている。神に反逆などしないほうが良いに決まっている。知恵という禁断の実を食べたばっかりに、人間は悩むようになってしまったのだ。

 時代が、農耕社会から工業社会へと転換したにもかかわらず、大家族を押しつけて農耕社会の家制度を強制したことによって、どんなに悲劇的な人生が生まれたか。それを振りかえるとき、時代にあった制度が用意されないと、弱者は泣きを見ることになる、と考える。

 工業社会から情報社会へと転換しながら、工業社会の家族形態である核家族を強制すると、女性や子供は悲劇に見舞われる、そう考えている。大家族が核家族になったように、情報社会では情報社会の家族形態があるだろう。そういった問題意識が、成体化した子供の自立を考えさせるのである。

 登校拒否の子供たちとは、中学生が主流だった。中学生とは、肉体的には成体化する時期である。農耕社会なら、中学生は立派な1人前だった。おそらく中学生という成体化した子供が、学校を一番否定しやすい時期なのだろう。小学生では肉体の成熟が届かず、高校生では大人社会に順応し始めている。

 学校は金を稼ぐことを否定的に見る。学校で金のやりとりはしない建前である。しかし、ここに欺瞞がある。実社会が貨幣経済であれば、貨幣経済を汚らわしいモノのように見る視線は、たぶん間違いなのだろう。子供や子供社会を汚れなき天使のようにみるのは、工業社会のイデオロギーである。子供はきわめて利己的だし、欲望に忠実である。

 大人こそむき出しの欲望を否定し、願望を自己制御する方法を身につけている。幼体である間は、欲望その物である。幼体から成体への転換期を、子供とは見ないことが、子供の可能性を伸ばす方法ではないだろうか。成体化した子供を、一律に保護の対象と見るのは、女性保護と同様に差別そのものであろう。(2003.10.02) 

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