つれづれに     2003年11月

 フェミニズムの主張の一つに、家父長制の支配打破というのがある。大家族や核家族においては、高齢の男性が主導権を持っていることは事実で、この構造が情報社会には適合しなくなった。だから、家父長制は打破されなければならない。この主張は当然である。しかし、我が国へフェミニズムを輸入するとき、男性が主導権を持つという部分だけが強調された。「高齢の」という部分は、捨象されてしまった。

 男性による支配と高齢者による支配は、同じようでいて実は違うことである。高齢の女性による家族支配もあり得る。江戸時代の家制度のもとでは、家を継いだのは男性ばかりではない。養子を取ることによって、女性も家の跡継ぎとなり得た。肉体労働が優位していたから、男性支配の社会だったが、年齢の要素がはいると、高齢女性も力を持ち得た。男性と高齢者が重なることが多かったが、性別と年齢は別の話である。

 家父長制支配の打破を叫んでは見たが、家父長支配が、なぜ打破されなければならないかを、我が国のフェミニズムはとうとう理解できないでいる。肉体労働の無価値化が、男性と女性の等質化を招来したとすれば、頭脳労働の台頭が年齢秩序を崩壊させた。年寄りの知恵より、若者の頭脳のほうが、高い生産性を示す。肉体労働の無価値化と、頭脳労働の台頭は同じことの裏表である。

 家父長制から年齢の要素を取り除いてしまったので、我が国のフェミニズムは現代の子供の問題に、まったく無力となった。また、我が国のフェミニズムは、生身の男とか女と言った具体的な存在(性別)と、社会的な男性・女性(性差)を、別次元のものとして切りはなさず、生身の女性に拘った。だから、男性とか女性といった価値観から自由になれなかった。

 フェミニズムは20世紀が生んだ最大の思想であることは間違いない。フェミニズムは解放の思想である。人間に自由を与えてくれる。強いられた性差から解放され、みずからの性別を素直に謳歌できる。だから、男がマッチョで女がフェミニンであって、いっこうに構わないし、男女ともにセクシーであることが肯定される。

 社会的な男性・女性と、生身の男・女を切りはなせば、本当の自由を男女が手にはいる。ここを切り離したフェミニズムは、自由を保障するものとなった。フェミニズムは平等の思想と言うより、自由の思想たりえた。我が国のフェミニズムは、ここを切り離さないので、とても息苦しいものになってしまった。高齢者優位という年齢秩序の打破を忘れた我が国のフェミニズムは、いままた、子供についても同様の間違いを犯そうとしている。(2003.11.23)

 かつて尊属殺人罪という刑法上の規定があった。普通の殺人罪より、尊属つまり親や祖父母を殺した方が、罪が重かった。法は、社会道徳の反映だから、その社会が高齢者の知恵を不可欠としていれば、尊属殺人がより重くなるのも必然である。刑法の改正にともなって、尊属殺人罪は削除された。

 近代になって、高齢者の知恵よりも、若者の思考力のほうに価値を置きだした。高齢者の知恵は不要になった。だから、人間はみな平等になった。少子化になると、若年者の存在は社会を支えるために、不可欠になる。とすれば、高齢者が若者を殺すのは、大変な道徳違反になるだろうか。

 最近、高齢者が人殺しに走る。親が子供を殺すのである。かつては、子供が親を殺したら、尊属殺人として重罪を科されたが、今後は親が子供を殺したら、卑属殺人としてより重罪を科す、そんな時代が来るだろうか。高齢化時代には、高齢者は社会の役立たずとして指弾されるか。

 年寄りが少なかった時代には、年寄りの知恵が不可欠だったので、高齢者は大切にされた。しかし、健康や衛生状態が良くなったので、誰でも長生きできるようになった。世に高齢者はあふれている。社会に存在する者は、誰でも存在価値があるとしたら、存在価値の理由はなんだろうか。(2003.11.21)

 日本人の夫婦が、アメリカで代理出産した事件で、法務省は母子の関係を認めなかった。これは我が国のフェミニズムが主張している母子関係の優先に他ならない。生みの女親こそ母親であるという主張が、はからずも国家権力側から裏付けられた。「家族、積みすぎた方舟」を書いたマーサ・A・ファインマンあたりが聞いたら、本当に喜ぶだろう。

 親子とは血縁が保証するのではなく、観念の産物にしか過ぎない。情報社会にあっては、親子は関係であって、事実ではない。これこそフェミニズムが性差と性別を切り離した帰結だったはずである。社会性としての男女=性差と、生物としての男女=性別が、まったく別物だとみなすから、社会的な男女のが等価なのだ。

 「ささいなことで凶悪化」暴走する少女たち、という新聞記事(東京、11.12)が物語るように、既存の女性像は急速に崩れている。凍結精子児が認知されなかった判決も、既存の法体系が現実に対応できないことを物語る。フェミニズムこそ新たな時代を切り開く思想なのだが、我が国のフェミニストたちはまったく反動化して、新たな時代に対応できていない。(2003.11.14)

 先日、「婚外子・シングルマザー研究の現在」を研究する会に行ってきた。お茶の水女子大のジェンダー研究グループから、案内の葉書をもらったが、行くかどうかずいぶんと迷った。婚外子=子供の問題なので、重い心で行くことにした。会の中身は案の定だったが、Hさんという若い女性の発表が、とても好感が持てた。

 いままで、ジェンダーとかフェミニズムとか、婚外子・母子といったテーマでは、成人つまり親のほうからの視線が多かった。こうしたテーマを担う人たちは、差別解消を訴えて、正義感に燃えていることが多いが、自分たちの主張が子供たちにどう受け止められているかには、ほとんど無頓着だったように感じる。無前提的に是なること、と信じて疑わない。だからとても疲れた。

 今回のHさんの発表は、子供の目線で語られていた。彼女は、子供たちは必ずしも、成人たちの運動に好感をもってはいない、と本当の話を語った。子供たちは、この手のところに行くと、頭が痛くなりそうだったり、気分が悪くなったりするのだそうである。けだし名言だった。いかに正義であっても、押しつけている限り、歓迎されないのだ。

 しかし、この会の主催者たちは、ジェンダー研究自体が、当事者から頭が痛くなりそうだったり、気分が悪くなったりするものと、見なされていることに気づいているだろうか。会の冒頭挨拶で、アジアとの連携を深めたいといわれたが、頭の痛さを輸出することになるのでは、と心配である。

 フェミニズムからジェンダーへ衣替えをしているが、中身はフェミニズム時代とはちっとも変わっていない。フェミニズム時代は女性だけで良かったが、ジェンダーという以上、男性も含まれるはずだが、問題意識は女性関係に限られている。ジェンダーに当事者性が欠け、正義の押しつけとなっているので、そこへ参加するには頭の痛さを覚悟しなければならない。

 ジェンダーもフェミニズムがたどったのと、同じ道を進むように思える。結局、大学研究者の自己満足に終わるだろう。いみじくもHさんが言ったように、自分たちが癒されるために集う会のように、ジェンダー研究者たちもなるだろう。シングルマザーの会の活動が、その子供たちにとっては、小さな親切・大きな迷惑になっているとしても、ジェンダー研究が、そうならないように祈っている。(2003.11.06)

    お茶の水女子大学 21世紀COEプログラム ジェンダー研究のフロンティア
    (女)(家族)(地域)(国家)のグローバルな再構築、は下記のサイトです。
    http://www.igs.ocha.ac.jp/f-gens/activities/event/schedule/index.html
 

 中国南部で、赤ちゃんの人身売買が摘発された。2年間で118人の赤ちゃんが、売られたと言うが、117人が女の子だったと、東京新聞は伝えている(11.04)。途上国では、現在も人身売買が行われており、ミャンマーからタイへと売られる話は良く聞いたが、こんなに大勢とは驚く。

 もちろん人身売買が許されるはずもない。しかし、今回のように大量に摘発された被害者が、ほぼ全員女の子だったのは、衝撃的である。新聞も、「男児だけを必要とする農村の深刻な社会矛盾を浮き彫りにした」と書いている。これだけ女の子ばかりだと、女の子が人身売買の対象になる理由があると思う。1子政策のせいばかりではない。

 農業が主な産業である地域では、腕力に秀でた者つまり男性が労働力として重要視される。その結果、親としても自分たちが生きていくためには、生産性の高い人間を残したがる。社会福祉の発達していないところでは、親の老後はひとえに子供の働きにかかっている。それは女親でも同様であり、ここに男尊女卑といったイデオロギーのはいる余地はない。生きるのに適した人間が優先されるという、残酷な適者生存の法則が貫徹する。

 我が国にあっても同様だった。農業が主な産業だった江戸時代、間引きが横行したことは良く知られているが、やはり女の子が間引きの対象になる例が多かった。つまり、農業が主な社会では、秀でた腕力こそ高い生産性の象徴であり、それを担うのは男性だった。だから、女親である女性も、男性をより大切にしたに過ぎない。

 近代になって、工業が主な産業になって、腕力の価値が低下した。そして、現代の産業では、腕力はほとんど不要になった。だから、男性の優越性はなくなった。ここで男女はまったく等価になったのである。これは、当サイトの毎度の主張であるが、今回の人身売買を聞くと、貧困の撲滅こそ最大の目標だ、と改めて思う。

 中国南部の人だって、女の子でも子供は売りたくはないはずである。子供を売らざるを得ない状況の者に、男女平等だといったら、何と残酷であろうか。農業が主な産業のところで、男女平等を実践したら、成人の男女ともに生きていけなくなる。成人が生き延びなければ、その部落は存続できないのだ。男女差別の解消より、貧困脱出が優先するのは当然である。(2003.11.04) 

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