つれづれに     2004年1月

 このサイトで展開している私の主張は、おそらく死ぬまで理解されないだろう、と覚悟していた。そのため、「ダカラ」さんのような理解者の登場はとても嬉しい。「ダカラ」さん、ありがとう。「セヴン」の件、覚えています。

 自分を判って貰いたいものだから、ある時まで、他の人にも理解を求めていた。私はフェミニズムの正当性を主張するが、フェミニズムを主張している人たちは、どうも私の主張を歓迎していない。「単家族」も、「シングル単位の家族」に近いのだが、何だか否定的に言われる。「母殺し」も理解者だと思っていた人が、むしろ敵対的ですらある。もっとも近い立場にいると思っていた人たちから、敵対されるとは思っても見なかっただけに、最初は正直いって戸惑った。

 思想的近親者ほど、異論に寛容ではないのかも知れない。歴史的にもそれが事実だろう。ところで、「性差を越えて」→「単家族」→「母殺し」→「子供の消失」と、時を追って私の問題関心は動いてきた。「母殺し」あたりから、時代の最先端にいることを自覚し始めたので、他の人に理解して貰おうとは余り思わなくなった。

 「ダカラ」さん以外にも、少数ながらメールで賛同のご意見をいただいてもいる。とても感謝しています。時代を切り開くのは、地図のない世界を歩くことだから、ひどく手間ががかる。また、正しいかどうもかも保証の限りではない。しかし、とにかく行けるところまで行こうと思っている。(2004.01.27) 

 日本の女性は、フェミニズムをくぐりながら、ブラジャーを外さなかった、とはすでに書いている。かつての女性たちは、胸をはだけることに、それほどの抵抗感がなかった。にもかかわらず我が国では、トップレス水着はとうとう普及しなかった。女性の乳房が、羞恥の対象になったのは、いつ頃だろうか。

 銭湯や温浴施設の脱衣室に、防犯カメラを設置する例が増えているという。相次ぐ盗難事件への対応策らしいが、女性客からは「盗撮と同じではないか」といった苦情が絶えないらしい。写真を撮られることが、肖像権といったプライバシー侵害として、しばしば問題になる。

 着衣の写真を撮るのが問題になるのだから、着替え中の写真は当然に問題になるだろう。それは男女を問わず、問題になる。しかし、ここで問題にしたいのは、女性の身体に対する意識である。着替え中の写真撮影を、全面的に禁止するという方向へ行かずに、女性特有の問題として語られるのはなぜだろう。

 男女平等を指向し、男女間において、いかなる差別も認めない。ユニバーサル・デザインを指向し、トイレですら男女別なしの個室ブース、もちろんプールの脱衣室も男女別を廃止、スポーツは男女の別なく競う、それが当サイトの主張だが、どうも我が国のフェミニズムは反対の方向に進んでいるようだ。

 通勤電車に女性専用車両が復活したときにも、フェミニズムは反対するかと思ったら、むしろ賛成の意見が多かった。女性の自立は、女性の犯罪も増やす。すでにその傾向は始まっており、少女の凶悪犯罪も増えている。少女が暴力をふるう例も増えている。けっして暴力事件の増加を推奨しているわけではないが、女性犯罪の増加は女性自立のバロメーターである。

 女性の自立とは、男性と女性が等質化すること、もしくは男女差がなくなることだとすれば、女性特有の意識は、産婦人科系を除いて、成立する余地がなくなる。もちろん、個人的な魅力として女性美を売るのは、いっこうに構わない。しかし、社会的な女性存在は、女性だからという理由を許さない。

 個人的な女性性は、社会的な女性性とは、違った次元である。個人的な女性意識は、女性特有を持ちつづける、いや今以上に女性らしさに拘るだろう。しかし、アメリカ映画の女性たちが、活動的な美を売るように、社会的な女性意識は、もはや存在しない。それが平等という意味だろう。

 いままで女性は、社会性を作ってこなかった。今後、女性はいかなる社会性を作るのだろうか。女性だけが、裸に羞恥心を持ちつづけるのだろうか。西洋の女性たちが、海岸で乳房を日光に晒すとき、日本の女性は水着をつけ続けるのだろうか。(2004.01.22) 

 人間は良いこともする。しかし、悪いこともするがゆえに、人間なのだ。良いところだけを見ては、人間が判らない。最近は、車いすの人を街でしばしば見かけるようになった。若い人が付き添っていたり、徐々にだが障害者にも生きやすくなっているように思う。

 言葉と耳が不自由な人が、やはり耳が聞こえない人から、600万円を恐喝したという記事(東京新聞1.19)を読んだ。恐喝された方には大変気の毒だが、何だか愉快な事件で、いかにも人間らしいと感じさせられた。障害者というと、「体が不自由でも心は綺麗で一生懸命に生きている人たち」無敵のハンディキャップ:北島行徳、というイメージがある。

 しかし、障害者も、普通の人間である。むしろ生きることに困難な分だけ、心が曲がっているかも知れない。でも、普通の人間であることに、まったく変わりがない。喜怒哀楽をもった同じ人間である。とかく障害者を美化したくなるが、美化は一種の差別であり、かえって理解を阻む。もちろん、蔑視は論外だが、他人を上にも下にも見ない、まったく横並びの隣人としてみる、そんな視点こそ理解し合える基礎だろう。

 聾唖者が手話を使って無言で恐喝したという、何と恐ろしい話だろうか。でも、いかにも人間臭くて、聾唖者も捨てたものではない、そんな感じの事件だった。蔑視も偏見だが、美化も偏見である。素直な目をもちたいものだ。(2004.10.19)

 「育児サークルで母親疲弊」(日経1月14日)という記事があり、その中で、「いくら夫に話しても理解してくれない悩みも、同じ境遇の母親は一緒に涙を流してくれる」という発言があった。ここには、体験しか自分の考えの素にならない資質がありありである。

 体験を同じくするから理解し合える、というのは怠惰な精神そのもので、こうした資質が日本のフェミニズムを支えているのだろう。どんな人の人生も、すべて一回しかない特殊解である。体験は一度しかできず、体験でものを語る限り、真の理解はあり得ない。

 体験の中に共通するものを、論理で抽出し、それを各人の共通認識として、はじめて理解が可能である。我が国のフェミニズムが、女性であることに拘る限り、こうした母親たちには支持者を広げるだろうが、働く女性や男性からは決して理解されない。

 もっとも、フェミニズムというだけで、母親たちは足を遠ざけるとすれば、今後我が国のフェミニズムには、とても残念だが明るい将来はない。我が国のフェミニズムのめにも、なんとか、現実から論理を抽出したいものだ。(2004.01.17)

 神を殺し、王を殺し、そして、父を殺して、人間は近代社会に足を踏み入れた。旧体制の権威を殺してきたのは、すべて男性だった。だから、近代が男性支配の時代だったのは、当然である。前近代では、それなりの地位を占めた女性は、社会的な地位を失った。

 女性が自立した。女性の自立とは、女性による過去の権威の否定であり、それはとりもなおさず<母を殺す>ことである。女性が母を殺すことによって、女性は自立した。男性は父を殺し、女性は母を殺すことによって、互いに自分の足で立った。もはや神の援助は不要である。

 女性の自立によって、時代は近代を終え、後近代へと入った。そして、子供が神の僕として残った。しかし、子供も自立が間近い。子供だけを近代に残すことはできない。アメリカ映画は、子供の問題を、大人たちの問題として考え続けている。(2004.01.16)

 女性に貞操がいわれたのは、明治になってからであった。それまでの女性には、貞操という観念はなかった。自分の気に入った男と、肉体関係を持つことは、気まぐれにでも肯定された。夫以外の男と、肉体関係を持っても、夫との関係が揺らぐものではなかった。

 夫の浮気で、夫婦関係が破綻しないのと同様に、女性が他の男と性交渉を持っても、所詮浮気でしかなかった。夫婦関係には生活がかかっており、他者との性交渉がごときで、解消するものではなかった。結婚生活と性愛は別次元だった。

 江戸時代まで、女性は肉体労働者だったから、自分の欲望のままに生きることができた。浮気性の妻でも、働きのある女を離縁するのは、困難だった。明治になり、女性の職業が結婚以外になくなってくると、貞操こそ生活を確保する保障だった。この時代に、江戸時代までの生き方を貫くと、女性は生活に困窮した。

 農耕社会の職業が、急速に消滅していくなかで、人口は急激に増えていた。女性の職業は、なくなっていった。貞操を守ることによって、夫に性を売って主婦として生きる。それが明治の女に残された道だった。明治の女性運動は、無節操な異性関係を否定し、1人の男性にだけ自分の肉体を開くように訴えた。

 女性に職業がないところでは、セックスを売り物にするしかない。しかし、女性が自力で生きれれば、自分の好む男を抱いていい。男性に選ばれるのではなく、女性自ら男をベッドに誘える。男性が好みの女性を選ぶように、女性も男性を選んでいい。女性も男から男へと、好みのままに食味しても良い。

 貞操! そんなものは男のためにある言葉だ。自分で歩く女性は、自分の欲望のままに、男を取り替えることができる。気に入らない夫は、こちらから払い下げにする。気に入った男を、また口説けばいい。それが明治前、つまり近代以前の女の生き方だった。

 情報社会化する今、女性が経済力をつけ始めた。稼ぎのある女性は、自分の性欲にしたがって生きても、生活には困らない。上手いものを食べるように、男を試食する。今後、だれも女性に貞操を要求しないだろう。男が女に選ばれる、そんな時代が来る。

 少子化時代に、核家族の大切さを訴えることが、どんなに時代錯誤かを知れ。個人が自由に生きることができなくて、家族の平和などあり得ない。個人が自由に生きてこそ、子供が生まれる可能性も生じてくる。(2004.1.2) 

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