つれづれに     2004年2月

 同性婚でブッシュ大統領は、結婚公認したサンフランシスコ市などを、はげしく非難している。我が国の新聞は、米国でも同性婚は世論が割れると書き、同性婚に必ずしも好意的ではない。しかし、我が国の新聞が見落としている重要な点がある。

 行政の長たる大統領と、裁判所が真っ向から衝突し、裁判所は少数者の人権を守ろうとしていることだ。人権は多数決によって、その帰趨が決まられるのではない。少数者の人権こそ、法の下の平等に照らして守られなければならず、人権判断の基準は国民の多数意思ではない。

 国民の多数によって人権が疎外されるから、法と良心にだけ従って孤高を守る裁判所の存在意義がある。多数決によって人権が決められたら、新たな人権は生まれる契機はないし、少数者の人権が守られるはずがない。映画「ラリー フリント」を見ても判るように、アメリカの裁判所は、時代を切り開く判決を出している。

 我が国の裁判所が、政府と対決しても、人権を守るかと言えば、まったく絶望であろう。我が国の新聞は、アメリカの裁判所が如何に人権を考えているか、ほとんど判っていない。だから、ゲイの人権を巡って、大統領と裁判所をならべて、痛痒を感じないのだ。(2004.02.27)

 結婚できない男性の悲哀が、しばしば報じられる。2000年当時の未婚率は、40歳代後半で男性14.6%、女性6.3%だから、あたかも男性が結婚できないように思うかも知れない。しかし、結婚できないのではなく、男性が結婚を忌避している、と感じるのが当サイトである。

 専業主婦という稼がない女性が、大量に棲息する我が国では、男性は一生働いても、離婚時には年金の半分を女性にもって行かれそうである。それだけではない。子供がいなくても老後は困らなくなってきた。子供の価値がなくなってきたから、無価値の子供は生んで貰わなくても良い。とすれば、女性を養うことに意味がない。

 女性の子供を産むという特性が、男性にとって不要になってきた。男性には、友達としての女性がいれば、それで充分である。そう考える男性がいても、何の不思議もない。我が国のフェミニズムは専業主婦を擁護しているが、専業主婦擁護は結局のところ、女性自身の首を絞める結果になってきたように思う。

 少子化とは、女性の出産拒否として起きたのではない。子供が不要になった結果、子供を産まなくなった。子供が不要になるとは、子供を産む機能もまた不要になったのだ。そこで女性の存在意義が問われるのだが、我が国のフェミニズムは何の答えもない。(2004.02.25)

 昔書いた「カントはかく考える」を読み直したら、ひどくおかしいことに気付いた。1970年当時は、男女間で肉体関係をもつことは、かなり勇気のいることだった。処女のまま結婚する女性も多かったに違いない。だから、肉体関係ができると、籍を入れる=結婚することが、男性の責任ある行動だと、女性にも思われていた。

 肉体関係をもった男性は、真面目であればあるほど、籍を入れるという形で責任をとろうとした。そういった形で責任をとろうとする男性を、女性たちは好ましい男性と見ていた。しかし、今考えてみると、肉体関係をもったら結婚するのは、女性の主体性を認めない発想だ。ここには男性から働きかけるという無意識の前提があり、女性から肉体関係をつくるという発想は、入り込む余地がない。

 女性から女性へと渡り歩く、プレイボーイは不真面目な奴とみられた。責任を取ろうとする真面目な男性ほど、女性の主体性を認めなかったことになり、本当におかしな時代だった。今では当然にも、性的な動機は男女両者に同じようにあり、肉体関係は両者の責任において行われると考えられている。

 男性が性的主導権をとり、女性がそれに従うだけだったら、人類の歴史はとうに滅びていたに違いない。男女が共に好色だったから、人類は子孫を絶やすことがなかった。男性がスケベである程度には、女性も同じだけ好色なはずであり、片方だけが突出していないのは、生き物として当然である。

 男性に肉体関係の責任を追及した時代は、女性の人権を歪めていたのだ。「いのちの女たちへ」には女性は精液の受け皿だ、といった女性の被害者意識が横溢している。時代の制約とは言え、ずいぶんと古めかしい感覚である。ラブ・ホテルがたくさんでき、気軽に肉体関係を楽しめるようになった。婚外子こそ少ないが、時代は変わったのであろう。(2004.02.23)

 田中美津さんの「いのちの女たちへ」といった1970年当時のものを読むと、女性が模索していたものが、自己の解放だったことがよく判る。差別的な立場におかれた自分をどう解放するか、それを必死で探していたのであり、思考の目は自己に向けられていた。

 ヒューマニズムは旧体制の王侯貴族から、自立しようとした市民の思想だった。市民が如何に自己の基盤を確立するかに答えようとして、ヒューマニズムが誕生した。ウーマンリブを引き継いだフェミニズムは、自己解放の思想とならずに、他者=男性社会を攻撃するものとなってしまった。

 自分を自由にする思想=解放の思想が、抑圧する他者を攻撃するのは、他者が自己の自立に対峙するものだからである。自己解放を指向しないところで、他者の攻撃だけが残れば、思想や運動は衰退せざるを得ない。現在のフェミニズムをみていると、自己を見つめようとはせず、他者の非難に終始している。

 自由になる=解放の思想と、等価になる=平等の思想が、二者択一を迫られたとき、自由が優先するのは当然である。平等があって後に自由があるのではなく、自由があって平等が保障されなければならない。平等を指向した巨大な試みは、完全に失敗に帰したことが、それを証明する。

 自己に沈潜して観念を鍛えることは、女性にはできないのだろうか。女性は損か得かでしか、考えることはできないのか。そんなことはないと信じたい。「殺したかったから」という好奇心だけで、女性も殺人を犯せるようになったのだから、女性にだって観念はあるはずである。

 人を殺せば、どのような処遇が待っているかは、どんな人間も知っている。にもかかわらず、好奇心だけで殺人を侵すのは、きわめて人間的な行為である。激情ににられてとか、欲に走ってといった動機は、すこぶる動物的なものだ。今女性も解放されようとしている。(2004.02.20) 

 自衛隊の海外派遣には反対である。しかし、派遣された兵士を見ると、男性ばかりである。今回の派遣に、女性兵士が参加しなかったのには、何か訳があるのだろうか。まさか自衛隊の女性兵士に、仕事をする能力がないからだとは思えない。他の国では、女性兵士もイラクに派遣されているのに、我が国の女性兵士は、なぜ参加しないのだろうか。(2004.02.18)

 「河畔望論」というコーナーを設けて、私だけが読むのでは勿体ないと思うメールを、掲載することにしました。優れた映画評論ですが、私信という形でしたので、その公開を快く了解してくださったことに感謝します。一つの作品は、様々な読み方がある。とても参考になります。(2004.02.13)

 DV法の改正案がまとまり、元配偶者も適用「一歩前進」という新聞記事がでた同じ日、違う新聞には<男性絞殺、女を逮捕>という記事が出ていた。この記事によると、2月4日午後4時40分頃、さいたまのラブホテルで、男性(30歳)が殺されたという。これだけなら驚きはしない。

 「人を殺したかった。馬乗りになってひもで首をしめた」と、殺した女性(36歳)が言っていることに驚いたのだ。「人を殺したい」から殺したというのは、きわめて哲学的で男性的である。女性がテレクラに電話をして、男性をホテルに誘うのは、今や常識となっている。この女性もテレクラで男性を誘った。そして2人はホテルに入った。

 新聞によれば、12時頃ホテルにチェックインしたという。いくらスケベな男性でも、テレクラで会った女性に、すぐに無防備になるとは考えられない。とすると、「殺したい」という気持ちは、会う前からあったのだろうから、この女性は殺意をいだいてセックスをした。セックスが終わって、男性が無防備になったところで絞殺したと思う。

 殺したかったから、女性が男性を殺す。「殺したかった」という動機は、女性の強い自立意識を感じさせる。セックスが絡みながら、殺しを貫徹する意思には驚嘆するばかりである。女性も確実に主体になっている。時代は確実に進んでいる。(2004.02.10)

 対を単位とした家族=結婚には、当サイトは必ずしも賛同しない。しかし、国際結婚やゲイたちの結婚は、結婚制度にのることを祝福したい。男女の対にとって、結婚制度にのることは、当たり前以外の何物でもない。2人の届け出での意思だけで、婚姻証明書が手にはいる。

 しかし、国籍が違ったり、性別が同じだったりすると、結婚制度はその門を閉ざしてしまう。差別された立場にいる人は、大多数と同じ立場が欲しくて堪らないのだ。第2次世界大戦で、日系二世がアメリカ人以上に果敢に闘ったのも、120パーセントのアメリカ人を体現したかったからに他ならない。

 遅れて生きた人間には、多数者の制度にのること、それが最低限の目標なのだ。だから今日、結婚制度は重要度を下げているにもかかわらず、結婚という制度を入手したいのだ。その気持ちは実によく判る。国籍の違う2人が同棲をしているだけでは、法は何の保護も与えない。国籍が違うと言うだけで、国境が2人を引き裂く。

 国際結婚やゲイには、制度的な結婚によって、それぞれの立場を確保する道が保障されていい。当サイトは「核家族」から「単家族」へと、社会的な制度としての家族は、転換していくと考えている。しかし、現実に生きる人にとっては、制度が与えてくれる恩恵は大きい。同棲は簡単だけれど、婚姻は当人の意思だけでは不可能だから、ほんとうに難しい。

 マサチュウセッツ州の裁判所は、時代を画する判決を下した。この判決を下した判事の名前は、歴史に残るだろう。(2004.20.10)

 今年1月18日、同性愛=ゲイを禁止する法律は、憲法違反だという判決が米国マサチューセッツ州であった。それをうけてゲイのカップルに、男女の夫婦とまったく同じ権利、保護を認めた法律が州議会へ提出される。2月5日の東京新聞によると、これによって同性愛者の正式な結婚が実現しそうだという。

 同性愛者の結婚が実現すると、人類史上初の快挙になるだろう。プラトンも「饗宴」で、少年愛を熱く語っているように、若年の男性と性的交渉をするのは、盛大に認められていたと言っても過言ではない。しかし、同じ立場の同性が対等の立場で、性的な関係をもつことは厳禁されてきた。もちろんそれは年齢秩序に反逆するから、許されなかったのだ。

 情報社会になり、性別秩序と同時に、上下の年齢秩序が崩壊し、人間が横並びになった。そこで、同じ年齢・地位の同性が愛し合っても、許されるようになった。と同時に少年愛は児童虐待として、犯罪となった。上下の年齢秩序を維持することが、情報社会ではマイナスと判断され始めたのだ。

 1999年以降、バーモント州、アラスカ州、ハワイ州と、ゲイが認められてきたが、やっと異性婚と同じ扱いを受けるところまできた。これは情報社会の深化を象徴している。しかし、保守的な南部などでは、未だにゲイは冷遇されている。ところで、途上国では少年愛しか許されない。途上国ではゲイは嫌悪される。先進国のゲイたちは、なぜそれが理解できないのだろう。

 先進国のゲイが、途上国の人たちに非寛容を責めるのは、逆差別でしかない。アジアで少年を買う白人は論外だが、少年愛を通過儀礼としている人たちには、それが彼らの文化だろう。折口信夫や稲垣足穂など、かつては我が国もそうだった。三島由紀夫も少年愛に近かったと思う。

 ゲイの解放は女性の解放と、同じ原因から生まれた違う現象にすぎない。両者は同根であるがゆえに、情報社会の落とし子である。とすればここで語られるのは、子供の問題でしかない。子供も1人前として、自立を迫られている。(2004.02.09)

 差別意識を持つことも自由だと書いたが、差別することが自由だといっているのではない。この違いを誤解しないで欲しい。ところで、差別とはきわめて曖昧な概念である。まず、何を根拠に差別するか。また、何をもって差別というか。

 人種、信条、性別、社会的身分、職業、これらを理由とした違った取り扱いは、問題なく差別になるだろう。しかし、どんなことをしたら差別に当たるのか。例えば、キリスト教会が、お坊さんであるがゆえに、牧師として採用しなかったとしたら、これは職業を差別したと言えるか。また、盲人であるがゆえに、運転免許をとらせないのは、差別か。

 人種差別や性差別の撲滅は、当たり前のように感じる。しかし、それをどう実現するかは、また様々に程度がある。当サイトは、プールの脱衣室の男女別は、男女を別異に扱って男女差別だと考えるが、脱衣室は男女別が良いと考える人もいるだろう。また男女一緒の競技に、女子選手は抵抗もあるだろう。体重別だから男女に違いはないと思うが、柔道など女子選手は、ほとんど勝てなくなるに違いない。

 差別意識の克服と言うが、それは単純な話ではない。差別意識は各人各様で、とても簡単に定義はできない。にもかかわらず、差別意識の撲滅を叫べば、各人の信条のぶつけ合いになる。信じるところと信じるところの戦いには、決着を付ける基準がない。

 キリスト教徒からは仏教徒は異教徒であり、仏教徒からはイスラム教徒は異教徒である。これらの何が正しいかは、余人には決着の付けようがない。そこで、各人の頭の中に考えていることに関しては、立ち入らないことにしたのが、近代の立場である。そうした約束を破って、頭の中まで正しくしようとしたのが、天皇制でありナチズムである。

 我が国のフェミニズムは、さかんに男女差別の意識を問題にする。しかし、男女差別を何と考えるかは、決定打がない。肉体の構造が違う以上、男女に異なった意識が形成されるのは不可避である。にもかかわらず、差別の解消を進めるには、社会的な制度を対象にすれば充分であり、それ以上であってはいけない。それから先は人間の品性の問題であろう。

 男性的な感受性や、女性的な感受性があるとすれば、それらは個人の感性として大切にしたい。他人が意識変革などしてはいけないのだ。他人が意識変革することは、マインドコントロールであり、個人を尊重することに繋がらない。意識を対象にすると宗教戦争になる。

 有道出人さんの「ジャパニーズ・オンリー」を評価するのは、国籍=人種差別が公衆浴場への入場禁止という社会的な制度にたいして、公衆浴場や市役所に働きかけるだけではなく、訴訟という社会的な制度として、差別を訴えたからだ。個人的に気に入らない人間がいても、気に入らないことそれ自体を差別だとは言わない。

 感じる自由、信じる自由、こうした人間の頭の作業には、他人は立ち入らない。むしろ尊重する。それが近代人のマナーである。個人は頭の中を自由に解放できる、誰からも邪魔されない。どんな空想に耽ってもいい。だから自由な発想が確保されたのだし、人間の解放が始まったのだ。(2004.02.06) 

 人間を差別することは悪いことだ、と考えられるようになったのは、近代に入ってからである。前近代では、差別は当たり前に存在したが、誰も差別を悪いことだとは考えなかった。むしろ、人間を生まれや性別、人種で差別することは、当たり前だと見なされた。

 前近代という時代には、差別されていても、それを苦痛とは感じなかった。身分や性別・人種の違いは、単なる事実として、住み分けられていた。百姓が殿様になろうとか、女性が男性役をやってみようなど、誰も考えなかった。だから、差別が問題にならなかった。

 近代になると、百姓でも国会議員になりたいとか、女性が社長になりたいと考えるようになった。それが実現できないときに、それを差別だと見なすようになった。その背景には、農業と違って工業は個人の解放を、必要とする事情があったからだ。今回はこれが言いたいのではない。なぜ、当サイトが既存のフェミニズムやゲイから、歓迎されないかの理由である。

 女性差別を前近代まで遡らせて、女性は太古から差別された、と我が国のフェミニズムは言いたがる。しかし、前近代における女性差別は仕方なかったのだ、と当サイトは考える。むしろ、前近代で女性が自立意識を持ったら、生産力が低かったので、男女ともに生活に行き詰まったろう。肉体労働が大量に必要な社会では、肉体的な違いによる社会的な序列は、生きるために仕方なかったと見る。

 歴史の長いことが、正当化の根拠ではない。当サイトは、ゲイとは近代に誕生したものだという。年長男性が年少男性を性的に愛玩するのは、ゲイではなくホモであると考える。年長男性が年少男性を愛して良かったのは、年齢秩序が社会を支えていたからであり、年齢秩序の崩壊した現代になって、同年齢の同性同士が愛しても良くなった。ここではじめてゲイが生まれた。

 ゲイとホモは、まったく違うものである。今日、ホモは児童虐待という犯罪である。ゲイがホモと同じだと誤解されたので、当初ゲイは市民権が獲得できなかった。にもかかわらず、我が国の同性愛者は、同性愛は江戸時代からあったという。これは同性愛者によるゲイの否定である。ここで当サイトは、同性愛者をゲイ差別として非難する。

 差別がなぜ悪いのか。差別されている方が、困っているから悪いのではない。可哀想だから差別を禁止しようでもない。差別は個人に違いを認め、違いを理由に違った扱いを認める。この扱いは前近代では、生産力を支えるには有効だった。だから、差別が温存された。しかし、近代以降とくに情報社会では、個人に違いを認めることは、生産性向上の障害になる。

 個人は個人としてみな同じで、同じ能力があると考えるから、その頭脳に期待できる。個人を等価だと見なければ、頭脳労働が円滑にいかない。頭脳労働が充分に実現されないと、生産性が上がらない。生産性が上がらないと、全員が困る。だから差別があってはならない。差別の禁止は、差別されている方のためではない。

 差別解消を訴えるフェミニズムやゲイは、自分たちを被害者・被差別者として位置づけ、そこから発言する。当サイトは被差別者が差別されることには興味がない。他人の体験など、実感しようがない。差別を温存すると、差別者である自分が困るから、差別の撲滅を訴えるのだ。この論理の違いを、被差別者たちは理解できない。

 フェミニズムやゲイといった被差別者も、また差別意識に絡めとられている。差別解消を訴えるフェミニズムやゲイと、差別している方は、単に信じている心情の違いに過ぎない。両者ともに差別主義者であることに違いはない。差別されている者も、差別主義者である。当サイトは、差別・被差別の当事者性とは無縁である。

 生産性が向上して初めて、多くの人間が豊かに暮らせる。生産性向上のためには、差別が障害になる。だから、いかなる差別も撲滅しなければならない。ここで問題にしているのは、差別意識ではなく、社会的な差別の制度だと言うことが判るだろう。個人がいかなる意識を持つかは、まったく自由なのだ。もちろん、差別意識を持つことも自由である。(2004.02.04) 

 田中美津著「いのちの女」を書店で立ち読みしていたら、ウーマン・リブの命は、フェミニズムの女性たちではなく、渋谷などに棲息するガングロ少女たちに引き継がれた、と書かれていた。本書は、ウーマン・リブが華やかだった頃、書かれたものだが、新装版になって2001年に上梓された。

 この言葉は、新装版のあとがきに書かれているのだが、本当にそのとおりである。「反結婚論」で岡田秀子氏も「リブをとなえる女たちは、それがなにより自分の責任において、自らを不幸にする思想であることを百も承知なのである。(中略)ウーマン・リブの闘争はまさに狂気の沙汰であり、(中略)従来の婦人運動に彼女たちは期待しない」と、主張するように、体制化した女性運動には、もはや何の命もない。

 ガングロ少女たちは、白人の美の基準から離れて成立した数少ない美意識をつくりだした。彼女たちは、受け入れられることを目指したのではなく、自分の主張をしただけだった。自分こそ美の中心であるという、実に不埒な主張だった。ウーマン・リブの燃えるような勢いは、現在のフェミニズムにはない。

 西洋諸国のフェミニズムは、堅実に自己の主張を展開しているが、我が国のフェミニズムは自分の地位の確保に躍起となるだけで、何の新たな展開も見せない。「しあわせな孤独」は、フェミニズムが到達した最高点を示しているだろうが、我が国のフェミニズムではまったく理解不能だろう。彼我の大きな差は、本当に残念である。(2004.2.1) 

2004年1月

2003年1月  2003年2月  2003年3月  2003年4月  2003年5月  2003年6月
2003年7月 2003年8月 2003年9月 2003年10月 2003年11月 2003年12月
トップに戻る